「知識の持ち主から知識を引き出す」ということ
このところ、いくつかの研究プロジェクトでご一緒させていただいている小樽商科大学の松尾睦先生のブログに興味深い記事を発見した。少し長くなるが、引用させていただこうと思う。
ラーニングラボ
http://blog.goo.ne.jp/mmatu1964
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企業のナレッジマネジメントについての興味深い調査結果が、米国バブソン・カレッジのワーキング・ナレッジ・センターによって報告されている。
4つの組織における200人以上のナレッジ・ワーカーに10日間業務日報をつけてもらい、どのくらい知識の探索や応用に時間を費やしているかを調査した。彼らがどのような活動に自分の時間を使っているかを調べるためである。結果は、以下のとおり。
1位 知りえた知識を応用する(45.9%)
2位 知識の持ち主から知識を引き出す(37.7%)
3位 知識の所在を探す(10.2%)
4位 知識の持ち主とのミーティングを手配する(6.2%)
(中略)
出所:Jacobson, A. and Prusak, L.「知識の理解と活用に投資せよ」Diamond Harvard Business Review, March, 2007, 25-26.
(以上、松尾先生のブログ記事より引用)
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僕が、特に興味をもったのは、「2位 知識の持ち主から知識をひきだす」である。こうしたことが、継続的に可能であるためには、いくつかの諸条件が存在するのではないかと考えた。
ちなみに、以下で提案する僕の4つの条件は、「知識の持ち主から知識を引き出すことが、社会的地位の均等なナレッジワーカー同士で行われる、かつ、それに対する報酬が経済的価値をもって行われないこと」を前提にしている。この前提は、ナレッジワーカーの通常の仕事のやり方から考えて、まぁ、妥当かなと思っているが、これが当てはまらない場合には、下記は忘れて欲しい。
思うに「知識の持ち主から知識をひきだすこと」が、継続的に可能であるためには、
条件1.「知識の持ち主から知識をひきだそうとする人」も、何らかの領域に関する「知識の持ち主」であること
条件2.「誰がどの知識や専門性をもっているか」を、知識を引き出そうとする人が知っていること
条件3.ある人から「知識」を分けてもらったら、その見返りとして、「知識」を与えてあげるという互恵的関係が存在していること。
条件4.「知識の持ち主同士」が出会ったり、対話を行ったり、議論する場があり、かつ、知識を引き出す個人がコミュニケーションの中から知識を抽出する能力を有していること
思うに、「人から知識を引き出すこと」が継続的に実行できるためには、とにもかくにも、自らも「知識をもつ人」であり、かつ、常に自分のアップデートできる人でなければならない。つまり自分にも「強み」がなくてはならない。
下記は僕が、自分の研究室の大学院生に口酸っぱく言っていることであるが、ナレッジワーカーの世界、特に研究者の世界は「Give and take」である。そして、「Give and take」が成立するためには、「あなた」の側にも、「強み」がなくてはならない。
そして、通常は「Take」の前に「Give」が必要であることが多い。「Give and Take」のセンテンスにおいて、「Give」が最初で、「Take」が後に位置していることには、そういう意味であると思われる。
そして、「Give and Take」の感覚が「ゆるい人」や、「Take and take」の人は、短期的には成功するように見えても、長期的にはうまくいかないことの方が多いように思える。
「他者に投げたリクエスト」は、結局、「自分」にかえってくるのである。
投稿者 jun : 2008年4月29日 16:31
カミサマがくれた長いお休み
何をやってもうまくいかない時にはどうしたらいいんだろう?
先日、ある人との打ち合わせ終了後、そんな相談を受けた。
うーん
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つーか
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どうしようもないんじゃないの(笑)。
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とは口が裂けても言える雰囲気じゃなかったので(笑)、とにかく話を聞くことにした。
聞けば、このところ、何をやってもいまくいかない。新しいプロポーザルを何度だしても、リジェクトが続いている、のだという。
そんなことが続いて、どうも気乗りがしない。やる気が起きない。そもそも、やれる気がしない。
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うーん
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思うに「そんなときは、しばらく休むに限る」。これに関して、山口智子は、ドラマ「ロングバケーション」の中で、本当にいいことを言っている。
「何やってもうまくいかないときは、カミサマがくれた長いお休みだと思って、焦らない・・・」
(ロングバケーション)
何をやってもうまくいかないと嘆く人に、「頑張れ」というのは逆効果である。
また、気持ちがふさぎ込んでいる人に、「ポジティブ思考でいこうぜー、イェーイ、イェーイ」といっても仕方がない。ポジティブになれないからこそ気持ちがふさぎ込んでいるのである。そっとしてあげた方がいい。
「カミサマがくれた長いおやすみ」だと思って、焦らない、焦らない。一休み、一休み。今日がダメでも、明日があるさ。日はまた昇る。
投稿者 jun : 2008年4月28日 17:23
「スリランカの悪魔祓い」から考える
上田紀行著「スリランカの悪魔祓い」(徳間書店)を読んだ。本書で、文化人類学者の上田氏は、スリランカの悪魔祓いの風習のもつ「意味」をフィールドワークによって明らかにしている。
スリランカの悪魔祓いは、南部の農村地帯で主に行われている民俗医療行為のひとつである。「悪魔」に取り憑かれているとされるのは、一般的な近代医療でも治すことのできなかった人々。それらの人々の心には、いつも「孤独」が巣くっている。悪魔のまなざしは「孤独な人」に常に向けられている。
悪魔祓いの儀式は、村をあげて、夕方から一晩かけて行われる。呪術師がそれを司り、多くの村人が参加する一大イベントである。
儀式は、「悪魔へのお供え物」からはじまる。呪術師の進行によって、「患者」の心に巣くっている「悪魔」を外に出すことが試みられる。密教的で不思議な世界がそこにはある。
続く後半部は、雰囲気はガラリとかわる。それまでおごそかに儀式を進行していた呪術師は、ダンサー兼お笑い役者になる。村全体が参加する、ダンスあり、お笑いありの、いわゆる「演芸会」。お供え物も、村人たち全員に振る舞われる。悪魔祓いの会は、前半部とはうってかわって、「村人たちの社交の場」と化している。患者を取り囲み、談笑がかわされる。そして朝を迎える。
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一般に「病気」は「個人」に宿るものとされる。だから近代医療、いわゆる病院では、「個人」を対象に「治療」が行われる。「治療」はあくまで「パーソナル」なものである。
しかし、そんな「治療」にも癒せないものがある。心身症的な「病い」は、典型的にそれに含まれる。
「病い」は「孤独」から生まれる。そして「孤独」とは、ある個人をとりまく「社会的関係」が機能不全に陥っている状況である。そうであるとするならば、その「病い」の改善はいかにして行われるべきか。
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著者も指摘しているように、「悪魔祓い」で実施されていることは、機能的には、「共同体への再統合」である。別の言い方をすれば、患者を取り巻く「社会的関係」のもつれを解きほぐし、編み直す営みであるとも言える。
呪術師が外部から介入することで、「患者」と周囲のあいだで失われた「つながり」を回復し、編み直す営みである。
そして、ここが僕にとっては、大変興味深い。「悪魔祓い」といわゆる「組織開発」の理論の共通点を見いだせるからだ。
会社や組織において、個人のパフォーマンスと信じられているものの多くは、社会的関係の網の目を通して達成されている。
いわゆる状況的認知アプローチは、個人還元主義を廃し、個人の知的な振る舞いが、外界にある道具や他者によって支えられていることを明らかにした。
そうであるとするならば、パフォーマンスの向上のために我々が外部からなしうる介入の「単位」はいかにあるべきか? それは個人なのか、それとも個人をとりまく「つながり」なのか。この問いが、非常に興味深い。
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本書は、内容は専門的であるが、極めて平易な用語で書かれているので、一般の方にも楽しんでいただけると思う。なお、同書を編集した文庫本もでているようだ。
投稿者 jun : 2008年4月27日 22:12
人は長くは泣いていられない!?
昨日は、すっかり書き忘れてしまいましたが、A先生は、子どもが泣くことについて、他にもいろいろとおっしゃっていました。下記も、なるほどな、と思ったことです。
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叱られて子どもが泣いている時間は、その子のまわりに群がってくる友達の数に比例するんです。
子どもは、一人では、長くは泣かないものなのです。叱られて、一人でずっと泣いている子どもはいない。ひとしきり泣いたら、自分の力で、正気に戻るものなのです。
でも、泣いている子のまわりに友達がいて、「ねー、どうしたの?」「なんかあったの?」とかって、聞いているとしますね。こうなると、なかなか泣きやみませんよ。
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これ、オモシロイですね(何でも面白がってしまうのは悪い癖かもしれない)。深い。
A先生は、子どもについておっしゃっていたけれども、この一部は、大人にも言えるかもしれないなぁ、と思って聞いていました。
「人は、一人では長く泣いていられない」
のではないでしょうか。
そりゃ、こっぴどく異性に振られちゃって心に痛手を受けたり、はたまた、机のかどに足の指を思い切りぶつけたりしたら、「泣ける」わな。泣けるよ、そりゃ。
でも、もし「一人」だったら、長くは続かない気がするんですね。少なくとも僕は長く続かない。
「イテーな、コラ!」と誰にぶつけたらいいかわからない怒りと悲しみを抱えつつも、まわりに自分一人しかいなければ、「ちっ、しゃーねーな、ドジふんだぜ」と、比較的早い段階で正気に戻ってしまう(足の指と失恋を一緒にするな、という感じですが)。
でも、もしまわりに自分の話を聞いてくれる人がたくさんいてくれたら、なんか大げさに悲しんでみせたり、痛がってみせたりするような気がする。
「いてーよ、いてーよ、なんて、可哀想な僕」
みたいな感じ。てなことないですか? これって、僕だけ?
ここからは(ここまでも)、完全無欠の根拠レス、学問とは無縁の私見ですが、人が悲しみの淵から立ち直ろうとするとき、かえって声をかけると、そこから這い上がってくるのが遅れることもあるのかもしれませんね。
人が悲しみや痛さの淵にあるときは、敢えて「一人」にしてあげなければならない。そして、自力で少しでも復活してきたときには、温かく迎え、受け入れる。もちろん、「ずっと一人で」はシンドイと思うのだけれども、あるとき「一人になること」は、プラスの効果をもつ。
僕は臨床心理とか感情心理とか、そういう領域の知識や専門性は全く、本当に全くないので、もう既に学問的にこういうことが言われているのかもしれませんけれど、なんとなく、そう思いました。
深いね、人は、深いよ。
投稿者 jun : 2008年4月27日 01:20
「シェフ・ミッキー」でミッキーマウスに逢った!
先日、TAKUZOを連れて、ディズニーランドのアンバサダーホテルに行きました。ランチは、同ホテルのビュッフェレストラン「シェフ・ミッキー」で。ここは、なんと、ミッキーやドナルドたちが、食べているあいだに、テーブルを回ってきて、ご挨拶してくれるのですね。
(TAKUZOは2日間ほどディズニーランドに滞在しました。僕は仕事があったので、すぐに帰らざるをえませんでしたが、かなり満喫したようです。よかったねぇ。)
シェフ・ミッキー
http://www.disneyhotels.jp/dah/japanese/rest/chef.html
TAKUZOが喜ぶ顔を見たくて連れていったのですが、子どもというのは、わからないですね。実際、ミッキーとご対面すると、まさかの「ぎゃん泣き」です。
次第に慣れてはきたものの、完全に怖がっている。写真撮るときだって、ミッキーを避けています。オマエ、あんだけ、ディズニーのビデオ、喜んでみてたじゃんかよ。なんじゃ、そら(笑)。
ちなみに、シェフ・ミッキーでは、ミッキーもドナルドも、テーブルにきたときに、頼めばサインをしてくれます。サービス精神、旺盛な動物たちですね。
下記はドナルドのサイン。
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疲れたいたせいか!?、僕は、一瞬、Donald Duckの下の文字が「井上(いのうえ)」に見えて、ドキッとした!。よく見たら「#1」でした。まさか、アンタ、井上さんじゃないよね。
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下記はおまけ。
一般人は、なかなか目にすることの少ない「ドナルドの後ろ姿」です。
どうでもいいけど(笑)
ともかく・・・よいGWをお過ごし下さい。
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追伸.
あっ、そうそう、阪大時代に同期だったリュウイさんの息子のコホー君が、ミュージカルをやるので来てくれないか、と連絡をくれました。演目は「モモ」だそうです。「時間」の話ですね。「最近、時間がねーな、忙しいな」という方はぜひ(笑)。
〇演目:モモ
○原作:ミヒャエル・エンデ著
〇公演日程:
5月4日(日)13:30/18:30
5月5日(月)12:00/16:30
○公演場所:世田谷区民会館(1202席)
○料金:前売り・当日 999円
中学生以下500円(全席自由)
○チケット購入はこちらまでメールを
gtedmf9206 [at mark] softbank.ne.jp
mrhk0317 [at mark] hotmail.com
投稿者 jun : 2008年4月26日 17:00
「先生」と「企業人材育成担当者」の交流!?
大学院生W君の研究打ち合わせのため、某大学・A先生のアジト!?(研究室)を、おとずれた。W君は「初任者教師の力量形成を支援するシステムの開発」に取り組んでいる中原研究室修士2年の学生である。
A先生は非常にお忙しい中我々のお話を聞いてくださり、また、今後の可能性もご提案いただいた。今日はW君の研究にとっても非常に進展が見られた日で、大変喜ばしい日であった(指導教員としては、嬉しいものです)。
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A先生とはいろいろな話をしたけれど、「初等中等教育の現場の先生と企業人材育成担当者の交流」の話が大変印象的であった。
A先生は、近年、小学校や中学校の先生を集めて「越境する教師の会」というのを主宰なさっているのだという。
現場の先生方がいったん学校を離れ、学校の外の社会で何が起こっているかを見つつ、学校や教師が社会的にどのように「見られているか」を意識してもらう場なのだという。この会のコンセプトは「教師の総合学習」だそうだ。
会では、企業の人材育成担当者に来てもらい、企業での人材教育のこと、企業から見た学校の姿などを語ってもらうこともあるのだそうだ。教師教育を学校にとどめず、社会に開くという意味で、大変オモシロイ試みだと思った。
A先生によると、教師が教師同士で行う授業研究は、それ自体大変貴重だが、ある意味で「限界」もあるのだという。小学校での教員経験から、そのように思うそうだ。
問題点のひとつは、社会における学校や教師のポジションを理解しにくい、ということだという。越境する教師の会は、それを乗り越えるための社会的装置とも位置づけることができるだろう。
また、少し別の話になるけれど、授業研究は貴重であるが、もうひとつの限界があるのだという。それは、授業研究が、「教師の生きる日常の社会的関係」の「中」で営まれることに起因する。
顔を見知っている先生同士だから、お互いによく状況を理解しあっている先生同士だからこそ、お互いに「ふれていい部分」と「ふれてはいけない部分」がわかる。
授業を真剣に内省するためには、このコードを時に犯すことも必要なのだが、通常は、それは、なかなか難しい。「ふれてはいけない部分」を巧妙に避けることで、授業研究という場を、何とか「達成」することが・・・・悪い言葉を使うのならば、「やりすごす」ことが求められる。
もちろん、教育学における教師教育研究においては、授業研究は、理論的にはそのような場としては位置づいていない。
しかし、短期的に場に関与しかしない研究者がいくら声高に、「お互いに思っていることを言うべきだ」と主張しても、長期間にわたって、「そこ」で生きていかなければならない現場の教師たちには、それがなかなか難しい。理論的にコレクトでも、それは現場としては難しい側面をもつということである。
故に、せっかくの機会でありつつも、教師の成長に寄与することが難しくなる、という話であった。大変興味深い。
ちなみに、午後の別の会議で、ある方々にこの話をしたら、
「企業の人材育成担当者も、現在の教育現場をあまり知らないと思いますよ。自分の受けた時代の教育や学校しか頭に浮かばない人が多いと思います。若手の育成などを考える人は、特に、教育現場からいろいろなインスピレーションをもらえるのではないでしょうか」
という趣旨のコメントを頂いた。
これ、オモシロイと思わない?
学校と企業・・・一見、全く、違った組織に勤務している人でも、「人の成長」「人の学び」に関わっているという点では、企業・組織の人材育成担当者も、現場の先生も共通している。
A先生とは、「越境する教師の会」と、僕が主宰している「Learning bar」の接点や交流を模索しようという話で非常に盛り上がった。
何か素敵なことが生まれそうだな、と思った。
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追伸.
A先生はこんなこともおっしゃっていた(ICレコーダはないので一字一句同じではないです)。現場での実践経験に裏打ちされた、非常に含蓄のある言葉であると感動してしまった。やはり現場の経験から生まれる「持論」とはスゴイものですね。
「子どもを叱った後には、一人にしてあげなさい。そこですぐにご機嫌をとっちゃいけないんです。そういうのを、昔は「おもねる」といったんだよね。
叱られた子どもは、泣くかもしれない。でも、泣いている時間というのは「考えている時間」なのです。それを奪っちゃだめだよなぁ。怒るときは怒る。これが重要。
「叱ったときには、おもねっちゃダメだよ」、僕がまだ新米教師だったころ、先輩の先生からそう教わりました。泣かせておいた方がいい。むしろ、フォローは、放課後一緒に遊んであげるときなんかに自然とやればいい。
そう考えると、授業での指導と放課後遊んであげることは、セットなんだよなぁ。昔はそれができたけれど。でも、最近の先生は忙しくて、放課後に子どもと遊んであげる時間はないですよねぇ・・・」
・
・
・
ちなみに、A先生は僕が学部時代から大変お世話になっている先生である。当時、A先生は、都内のある小学校教諭として勤務なさっていた。まだ右も左もわからない学部時代の僕が、先生の授業に参与観察をさせてもらった。そのご縁が今も続いている。大変ありがたいことである。
今日、僕は、大学院生のW君を連れてA先生のもとを訪れた。ちょうど10数年前、当時の指導教官であった佐伯先生が僕を連れて、A先生の学校を訪れたときのように・・・。
なんだか不思議な気分だった。
Time pasts so fast...
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ちなみに、下記の写真は小学校で参与観察をしていた頃の僕です。21歳の頃でした。ノートを抱えて、後ろから授業を見ています。この写真にうつっている子ども達は、もう大学を卒業し、ちょうど社会に出た頃ですね・・・。びっくりですね。
投稿者 jun : 2008年4月25日 16:03
「I」も「We」もある演説
大変興味深い記事でした。
WeとI、理念分ける話し癖 米民主党2候補
http://www.asahi.com/international/update/0419/TKY200804190188.html
1)change
Our time for change has come
「私たちの変化の時が来た」
2)Hope
We are choosing hope over fear
「私たちは恐怖(の政治)より希望を選ぼうとしている」
3)Yes, we can
Don't tell me we can't change. Yes, we can. We can change. Yes, we can.
「変化できない、なんて言わないで。私たちはできる。私たちは変化できるんだ。私たちはできる」
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自分の人生の物語 - 「I」の物語を、「アメリカが変わること」「アメリカが希望をもつこと」に重ね合わせるオバマの演説。そして、アメリカが変わる、アメリカが希望をもつ、というくだりで、「We」とか「Us」が多用されます。
ということは、オバマの演説は「I」もあるし「We」もあるのだと思います。「I」と「We」が一貫したストーリーで語られているところが特徴的ですね。
こういうのって、オモシロイですね。
演説はすべてテキストになっているだろうし、テキストマイニングとかで、特徴を分析できそうですね。O大学のM先生とかが興味をもちそうだ。
投稿者 jun : 2008年4月24日 07:18
手間暇かかるのである・・・
企業・組織において、「トップ」と「若手」のあいだに立って、コミュニケーションを円滑にしたり、相互の意図を伝えたり、時には「尻ぬぐい」したりしているのは、紛れもない「ミドル」とよばれる人々である。
会社によって年齢構成が違うので一概にいえないが、だいたい30歳から40歳くらいまでの人々が、いわゆる「ミドル」とよばれる。この人々が、組織の活動にとって果たす役割は非常に大きいと言われている。
時には翻弄され、時には勇敢に。「上から落ちてくる課題」「下から沸いてでてくる問題」を、何とかなんとか彼らは、マネージしている。だから彼らは忙しい。
ちなみに、僕も今年で33。世間的には、いわゆるアーリーミドルと言われる世代に既に片足をつっこんでいる。しかし、大学は教員の平均年齢が非常に高いので、この話がそのまま適応できない。大学で33は「赤ん坊」である。
「君なんか、まだ生まれていないよ」
と言われたこともある(笑)・・・が、大学の「外」の自分の同期を見ていると、「嗚呼、みんなミドルとして働いているんだなぁ」と思ってしまうことがある。
(ちなみに、ある委員会で、年配の先生が、"40代後半、もうすぐ50の先生たち"に発言をうながして、「○○君たち、若手の意見はどうかね?」と質問したのを見たことがある。驚愕した、つーか、新鮮だぜ、プルプル。この先生で「若手」なら、僕は「赤ちゃんレベル」だな、と心から思った。TAKUZO、パパと同じでよかったね!)
Anyway....ともかく、多くの企業・組織において「ミドル」は重要である。しかし、にもかかわらず、彼らの「成長」「学習」は、うまく支援されているとはいいかがい。
多忙さの中で疲弊し、成長や達成感を感じられず、目的を失ってしまう人もいる。日々の仕事に忙殺され、気がつけば、スカスカになってしまう人も少なくない。
もちろん、新人研修や管理職研修を慣例化しているところは多い。しかし、その間にある「ミドル」への働きかけは、そもそも手薄である。
ちなみに、ミドルには、大きな問題が横たわっている。
「ミドルの学習では、何を、どのように教えればいいのか、いまだ定式化されたモデルが、学術研究でもあまり提案されていない」
ということである。
新人研修や管理職研修では、「教えるべき内容」も「教え方」もある程度は定式化されている。しかし、ミドルには、それがない。その教育は「モデルなき模索」が宿命づけられている。
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そんな中で、「ミドルの学習は、どのような機会で、何を学んでもらうのか」について、自社でリサーチをしっかりと行い、教育をゼロから組み立てようと頑張っている会社が最近増えている。「モデルを自分たちでつくる」ということである。
民間教育会社にFAXをおくって、コンペして決めるのではなく、自社のマネジャーに対するきちんとしたリサーチをやる。その上で研修企画を行おうとしている何人もの担当者に最近お逢いした。
「しっかりとしたリサーチをやっておけば、どんな教育内容を残して、何を落とせばよいのか、自分たちで自信が持てます」
この言葉には大変共感できた。
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僕の信念のひとつに、
「教育の課題とは、いつも個別具体的だ」
というものがある。
現場が違えば、課題も違う。アタリマエのことではあるが、そのアタリマエをアタリマエと認識し、実践できている組織、ということになると、そう多くはない。
そして、個別具体的な課題を前に、「内部関係者」と「外部介入者」が、真剣に教育のあり方を「対話」を通して見いだそうとする事例は、さらに少ない。
内部関係者が思考を停止し、外部介入者に「丸投げ」したり、はたまた外部介入者がプランだけ描いて、内部関係者に「放り投げ」たりすることが、まま見られる。
対話には時間がかかる。そして、対話をすれば何かよいものが必ず生まれてくるわけではない。それはそれで大変な作業なのである。
結局ショートカットなどない。
手間暇かかるのである。みんなで、うんうん考えなければならないのである。そこだけは覚悟しなくてはならない。
でも、その果てには、「丸投げや放り投げによって生まれる世界」とはひと味違った、「希望のある世界」を皆で提案できる可能性がある。もちろん、これは根拠なき希望的観測。だけれども、僕は、そう信じたい。
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大学院ゼミ。下記の超有名・転移論文を読んだ。
Bassok, M., and Holyoak, K. J. (1989). Interdomain transfer between isomorphic topics in algebra and physics. Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition, 15, 153-166.
一般に、わたしたちは(僕も含めて)、すぐに「現場で活かせない教育ならやらないほうがまし」とか「教育は現場で役にたってナンボ」とか簡単に口にする。
まぁ、それはそうだろう。
「活かす」とか「役に立つ」とかを否定してしまったら、そもそも「教育」の営みの正当性が疑われる。
でもね・・・転移研究の過去の先行研究は、その「現場で活かせる教育」とか「現場役に立つ教育」が、いかに成立が難しいかを、これでもか、というほど教えてくれる。
あの手この手で介入を行っても、ちょっと気づけばいっぺんにわかっちゃうような同じ問題を与えても、なかなか「転移」がきかない。いや、転移することの方がむしろマレである。
自戒をこめて言う。「現場で活かせる教育をめざします」とか簡単に口にしてはいけない。それを口にするときは、よほどの「覚悟」をもつべきであると、僕は思う。
投稿者 jun : 2008年4月23日 08:16
気づきとは「学び」!?
企業・組織人材育成の担当者の方々の間でも、「流行の教育用語」というものがあるように思われる。最近、よく聞くなーと思っているのが「気づき」である。
受講者の「気づき」を促したい
今日のセッションでは「気づき」をもらいました
などという風に使われる。仕事上言葉には一応敏感なので、この言葉を聞くたびに、僕にはビビビとくる。
僕の感覚からいうと、上述の文章で言いたいことは、「学び」でも言い当てることができるような気もするが、あまり「学び」という言葉は使われない。「気づき」、これである。
大人とは「学ぶ」ものではなく、「気づく」ものである。
その背後にある学習観、素朴学習理論が、成人教育学の知見に似ていて、非常に面白いなぁ、と思う。おそらく「学び」は子どもや学校をイメージしてしまうのかもしれない。
ちなみに、この「気づき」を英語に直すと、おそらく「Learn ちょめちょめ from ちょめちょめ」であろう。断言できる自信はないが、おそらく「Notice」ではない。ね、Learnという言葉がしっかりでているでしょ。
気づきとは「学び」である。
投稿者 jun : 2008年4月22日 07:30
現場と学問、そして希望
「学習研究は、最後の最後には、"明るい未来"を提案しなければならない」
「後世を変えうるものは、"最後に希望があるもの"だけだ。だから、どんなにしんどい現実においても、学習研究は、最後に"希望を書く"のだ」
僕の恩師がよく口にしていた言葉である。一字一句正確ではないが、おそらく、上記のような趣旨のことを、かつて、学部生の僕におっしゃっていた。学部生には熱すぎる言葉だね。
曰く、
「暴くだけ現場の矛盾や現実を暴き、あとは知らんぽん、現場でよろしく勝手にやってね、ではいかん。論文として採録されるかもしれんが、それでは研究の大切なポイントを果たしていない。
かといって、現実のすさまじさから目をそらして、「今、ここで役に立ってるんだからいいでしょ」的な態度を決め込むのもいかん。それは学問の責務を果たしていない。
現場の現実を無視せず、学問としての鋭さを失わない。そして、その状況下で、学習研究は、最後の最後には、現場に"未来"を提案しなくてはならない。学習研究は、"希望を書かなくてはならない"。これは本当に難しいのだよ、おぬし」
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今、僕は、いろいろな研究プロジェクトで、企業人材育成の「現場」にかかわりながら、社会調査を行ったり、教育体系づくりにかかわらせてもらっている。大変ありがたいことである。
ひとつひとつの案件ごとに、現場が抱えている問題は個別具体的。そして、その根っこはめちゃくちゃ深い。たいていの場合、そこには、とても「人間くさい問題」が横たわっている。
そして、そのたびに思う。
学問としてコレクトであっても、「現場で起こっている出来事」とは距離のある提案に、人は納得しない。「学問としては成立するかもしれないが、それが解決されても、されなかったとしても、者会にとっては、どうでもいいもの」は、現場の人にとっては、やっぱり、「どうでもいい」。
理論的には正しくデザインされてはいるものの、それがあろうがなかろうが、「将来の希望」にとって変化がないものは、やはり、誰も選択しない。
学問の立場からは稚拙に見えたり、理論的不純を抱えるものであっても、現場の感覚がそこに反映されており、かつ、そこに「未来の希望」を感じることのできるシステムを、人は選ぶ。
しかし、だからといって、学問や理論が全く役に立たないわけではない。現実を前にして何から手をつけてよいかわからないとき、現実に起こっている出来事の解釈を行うとき、それは非常にパワフルな枠組みとして機能することがある。
現場と学問、そして希望
この3つが融合する瞬間を、いつも夢見ている。
けだし、僕の構想する学習研究は、学会誌に論文を投稿することが仕事ではない。
学びの現場に「希望」をもたらすこと、これが僕の仕事なのである。
投稿者 jun : 2008年4月21日 23:13
上田紀行著「目覚めよ、仏教」を読んだ!
上田紀行著「目覚めよ、仏教」(NHK出版)を読んだ。1990年代、「覚醒のネットワーク」で「癒し」の概念をいち早く世に問うた文化人類学者である上田先生が、ダライ=ラマ法王との対談の様子をつづったもの。
近年の上田先生といえば、日本仏教の再生運動の先陣を切り、「仏教ルネッサンス塾」や若手僧侶のためのディスカッションの場「ボーズ・ビー・アンビシャス」などを主宰なさっていることで、大変注目されている。
(上田先生の「覚醒のネットワーク」は、学生時代、僕が影響を受けた10冊の中のひとつである)
印象に残ったことは3つ。
ひとつめ。ダライ=ラマ法王が仏教の世界だけでなく、異分野の科学者などと、様々な「対話」の場をもつようにつとめていることがわかった。
対談の中では「その問題に関しては、リサーチが必要だ」といったような発言もなさっており、ちょっとした驚きだった。
思うに、本当に深い問いをもっている人は、どんなバックグラウンドをもっていようと「対話」が十分可能なのだ、改めて思った。宗教的指導者であろうと、科学者であろうと、つながることができる。
逆に、小人同士はバックグラウンドによって、対話が不可能になったりする。「~の常識」「~の作法」を押しつけようとして、お互いに智慧をださなければならない「大きな問い」を忘れる。自戒をこめて、小人にはなりたくない、と思った。
ふたつめ。上田先生がやや誇張を含みつつも批判している「日本仏教界」の中で流布している「言説=へりくつ」の中には、どこかで聞いたようなものも多かった。
自分たちの目の前にある問題から目をそらし、自分たちにしかわからない言葉で、自分たちだけが納得できる理屈をもって、自分たちを擁護する。そんなものに未来はない、目覚めよ!
みっつめ。これは本論とはズレる。上田先生がダライ=ラマ法王を評して、こんな趣旨のことを言っていたのが印象的だった(研究室に本をおいてきてしまったので、正確な引用ではない)。
「頭がいいとは、最初の質問に戻ってこられることだ。自分が質問をする。それに対して、歴史が語られ、哲学が語られ、もう最初の質問が忘れ去られたかな、と心配になるころ、最初の戻ってこられる」
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追伸1.
ちなみに、上田先生は東京工業大学で「教育賞・最優秀賞」を受賞なさっている。授業は、ディスカッションやワークショップ形式を取り入れるなどの試みをなさっているそうだ。実に興味深い。もぐりたい。「あいつ、なんか年くってんなー」って、バレそうだけど。
文化人類学・東京工業大学
http://www.ocw.titech.ac.jp/index.php?module=General&Nendo=2008&action=T0300&GakubuCD=150&GakkaCD=150&KougiCD=0173&lang=JA&vid=03
---
追伸2.
著書「かけがえのない人間」の下記の記述も大変印象的である。大きな目標を見失い、小さなことで争う。これは政治活動や平和運動だけで起こりうることではない。もちろん、学生が主導する活動だから、起こったわけでもない。よくある話だと思いませんか?
大学に入ってから、わたし(上田氏:学生時代、平和運動をやっていた)はますます落ち込むことになりました。というのも政治活動をやっている人たち同士の仲があまりに悪いのです。人権活動、平和運動ですから、皆主張していることはほとんど似通っています。
(中略)
ところが、平和運動や人権運動をやっている人たち同士の仲が悪い。その主張は99.5%同じなのです。なのに、残りの0.5%の違いにこだわって、オマエの平和は、オレの平和とこんなに違う、オマエはオレの敵だ、とかいって、お互いに闘い合っているわけです。これにはメゲました。
それも、そうした活動をしているのは、大学生の仲でもごく少数なのです。(中略)その圧倒的マイノリティの学生たちが、その内部でほんの小さな違いにこだわっては戦いあっている。こんなことでは、いつまでたっても、平和はこない。むしろやればやるほど、敵を増やし、暴力を増やすだけなのではないか。絶望的な思いにかられてしまったのです。
(p163より引用)
投稿者 jun : 2008年4月21日 09:45
事例検討会
昨日は、10月31日に東京大学・安田講堂で開催されるワークプレイスラーニング2008のための事例研究会であった。このカンファレンスで発表される事例は、この事例検討会をへて、当日発表されることになっている。
事例研究会には、カンファレンスの企画委員会のメンバー、事例発表企業の方々、そして大学の研究者20名弱が参加した。事例発表企業から、取り組みの概要が発表されたあと、ディスカッションを行う。
どのように事例を伝えれば参加者にクリアにつたわるか。
その事例の面白さ、独自性とは何か?
そして、その事例がもっている意味とは何か。
それぞれの立場から、意見が述べられる。1時間半後に、それまでの議論を中原がまとめて、ひとつの事例検討が終わる。
昨日は午後から事例検討をはじめ、無事夕方には終わることができた。お休みだというのに、ご参加いただいたすべての方に感謝いたします。ありがとうございました。
---
前にどこかで書いたかもしれないけれど、僕は、現在の、企業人材育成の領域の「実務家」と「研究者」の関係のあり方に、密かに疑問をもってきた。
「研究者」と「実務家」がそれぞれ、専門性や経験を持ち寄り、現場の実践を吟味することのできる「対話の場」を何とかつくりたい、と願ってきた。
教育学において、初等・中等教育の心ある研究者が、現場の先生方と築こうとした関係性を、何とか企業の研究でも実現したいと願ってきた。
ワークプレイスラーニング2008は、「研究者と実務家のあいだに、どういう関係が構築されるべきなのか」を、我々自らが実践して示す、という密かな目的も持っている。
だから、このシンポジウムをつくるプロセスも、我々にとってはとても重要なことである。
ワークプレイスラーニング2008に、僕は、賭けている。
皆さん、ぜひおこしください。
投稿者 jun : 2008年4月20日 08:03
Said ≠ Heard...
先日、某社のK社長、Sさんとお話ししていた際に、教えてもらった言葉。
つい「教える側」は「教えたんだから、わかっているはずだ、できるはずだ、変わるはずだ」と思いがちですね。でも、そこに至るまでには、結構長いプロセスがありそうですね。
---
(Said ≠ Heard)
こっちが言ったからといっても、聞いてもらえたわけではない
(Heard ≠ Listened)
聞いてもらえたからといっても、聴いてもらえたわけではない
(Listened ≠ Understood)
聴いてもらえたからといっても、理解してもらえたわけではない
(Understood ≠ Agreed)
理解してもらえたからといっても、賛成してもらえたわけではない
(Agreed ≠ Convinced)
賛成してもらえたからといっても、腹に落ちているわけではない
---
個人的には、もうひとつプラスして・・・
(Convinced ≠ Acted)
腹に落ちているといっても、行動してもらえるわけではない
・
・
・
道のりは、長いねー。
投稿者 jun : 2008年4月19日 07:00
Learning bar : クリエィティブ人材は育成できるのか?:博報堂大学の挑戦
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Learning bar@Todai 2008
クリエイティブ人材は育成できるのか!?
コーポレートユニバーシティ「博報堂大学」の挑戦
2008年5月30日(金曜日)午後6時 - 9時 東京大学
(午後5時30分より開場)
=================================================
2008年5月のLearning barは、株式会社 博報堂の
田沼泰輔さん、渡邉啓さんをお招きし、コーポレート
ユニバーシティ「博報堂大学」における「クリエィテ
ィブ人材の育成」についてご講演をいただきます。
1. 博報堂大学の概要
博報堂大学ではどのようなカリキュラムで
どのような人材を育てようとしているのか?
2. 博報堂大学の特色である「構想サロン/構想ラボ」
ではどのような活動をしているのか?
3. これまで実施された「構想サロン/構想ラボ」の
概要、そのインパクト、課題
などについてのお話をしていただく予定です。
広告代理店の競争の源泉は「人材」にあります。
生き馬の目を抜くような競争の中で、未来の広告を
提案する「クリエィティブ人材」は、どのように育成
されるべきなのでしょうか。
企業内大学があまた設立される中で、博報堂大学の
特徴とは何でしょうか?
今回のLearning barでは、企業内大学「博報堂大学」
における「クリエィティブ人材の育成の実際」につい
て、写真等をまじえて、ご講演いただきます。
参加をご希望の方は、下記の参加条件をお読みになり、
フォームに必要事項をご記入のうえ、4月末日までに
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまでご連絡
下さい。
参加可否の通知は5月GW明けにご連絡させていただ
きます。下記の要項を必ずご一読いただき、ご応募をお
願いいたします。
ここ最近、Learning barは満員御礼が続いており、参加
登録いただいても、すべての方々の御希望にはお応えでき
ない状況になっています。
ふるってご応募をお願いします。
企画担当:中原 淳(東京大学・准教授)
※Learning bar / Cafe (Seriousを含む)は、
NPO法人 Educe Technologies主催、東京大学大学院
学際情報学府 中原研究室が共催の学術イベントです。
---
○主催
NPO法人 EDUCE TECHNOLOGIES
http://www.educetech.org/
EDUCE TECHNOLOGIESは、教育環境の構築に
関する調査、研究、コンサルティングを行う
非営利特定活動法人です。
企画担当
副代表理事 中原 淳
○共催
東京大学大学院 学際情報学府 中原淳研究室
- 大人の学びを科学する研究室 -
教育学の観点から、組織人材育成や学習システム
を研究しています
http://www.nakahara-lab.net/
○日時
2008年5月30日(金曜日)
午後5時30分 開場
午後6時00分より午後9時頃まで実施
※時間が限られておりますので、定刻通り
に始めます。本郷キャンパスは意外に
広いです。くれぐれも、迷子になりませんよう
○内容(案)
□開場
(5時30分)
・今回のLearning barでは、サンドイッチ等の
軽食、ソフトドリンク、ビール、ワイン等を
ご用意します。ぜひ、お早めにおこしください。
□企画趣旨説明
(6時00分-6時10分)
・中原 淳(東京大学)
□レクチャー1部
「博報堂大学の全容について」
(6時10分 - 6時55分)
(40分講演+5分質疑)
・田沼泰輔さん(博報堂)
2005年4月に設立された「博報堂大学」。
その活動の狙いと全容について、まずは概括的
に解説します。デジタルメディアの進展に伴い、
広告コミュニケーションの世界も、急激に変化
しています。そんな新しい時代に求められる広
告人のありようについて同社の取り組みをご紹
介します。
(ケータイで質問を募集します)
~ break 15分 ~
□レクチャー2部
「なぜ博報堂大学は構想力なのか」
(7時10分 - 7時55分)
(40分講演+5分質疑)
・渡邉啓さん(博報堂)
博報堂大学の大きな柱である「構想力」。
なぜ博報堂大学は構想力を育てることを大きな
目的としているのか、また実際に構想力をそだ
てるために現在、博報堂大学が取り組んでいる
活動について、事例を交えながらご紹介をさせ
ていただきます。
(ケータイで質問を募集します)
□お近くの方とディスカッション
(7時55分 - 8時25分)
(25分)
□ケータイde質疑
(8時25分 - 8時50分まで)
(25分)
□ラップアップ
(8時50分 - 9時00分まで)
(5分)
東京大学・准教授 中原 淳
○場所
東京大学 工学部2号館 9F 93B
大学院情報学環 教室
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_04_03_j.html
地下鉄丸の内線本郷三丁目駅から徒歩15分程度
地下鉄南北線東大前駅から徒歩10分程度
○参加費
3000円(1名さま 一般・学生)
(講師招聘費用、講師謝金、飲食物、運営費等
に支出いたします)
○食事
ソフトドリンク、ビール、ワインなどの飲み物、
およびサンドイッチなどの軽食をご準備いたします。
○参加条件
本ワークショップの様子の写真、NPO Educe Technologies、
東京大学 中原研究室が関与するWebサイト等の広報手段、
講演資料等に用いられる場合があります。
参加にあたっては、上記条件を許諾いただける方に限ります。
欠席の際には、お手数でもその旨、
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jp
までご連絡下さい。
人数多数のため参加をお断りしている場合には
繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。
○どうやって参加するのか?
下記のフォームに必要事項をお書き入れの上、
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
4月末日までにお申し込み下さい
〆ココカラ=======================================
参加申し込みフォーム
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
4月末日までにお申し込み下さい
5月GW明けまでに参加の可否をご連絡させていた
だきます
---
上記参加条件のもと、参加を申し込みます。
氏名:( )
フリガナ:( )
所属:( )
メールアドレス:( )
〆ココマデ=======================================
投稿者 jun : 2008年4月18日 12:00
Think different - 世界を変える
昨日、Youtubeで、ある映像を探していたら、偶然、なつかしい映像を見つけました。僕が大好きなCMです。昔のAppleのCMは、強烈なメッセージがありましたね。
自分の手で世界を変えることができる、と信じている"イカれた奴"だけが、本当に世界を変えることができる。
Think Different
"イカれた奴ら"がいる。
鼻つまみ者。
やっかい者。
トラブルメイカー。
四角い穴に丸い杭をぶち込むように、
世界をまるで違った方向から見る人々。
規則は気にしない。
現状なんてクソ食らえ。
発言がとりあげられようと、
否定されようとかまわない。
反対されようと、
祭り上げられようと、
けなされようと
知ったことではない。
だけど、彼らを無視することだけはできない。
なぜなら、彼らは世界を変えているからだ。
世界を前進させているからだ。
"イカれた奴だ"と、人はいう。
"天才だ"という人もいる。
自分の手で世界を変えることができる、
と信じている「イカれた奴」だけが、
本当に世界を変えることができる。
Think different....
(中原超訳)
投稿者 jun : 2008年4月17日 06:47
ワークプレイスラーニング2008
朝、リクルートマネジメントソリューションズの石井さんと一緒に、某外資系企業 人事部長のAさんのもとを訪れる。10月31日(金曜日)に東京大学安田講堂で開催される「ワークプレイスラーニング2008」のご出講依頼のためである。
ワークプレイスラーニング2008の今年のテーマは
「新・企業教育部門に何ができるか?」
サブタイトルは
「あなたの会社に必要なのは、企業教育部門ですか?、それとも教育ですか?」
である。あー、言っちゃった(笑)。
敢えて「刺激的なタイトル」をつけているが(キレて飛びかかってくる人もいるかもしれない)、本質は「人事・教育担当者は今後、どのような仕事をしていくべきか」をアカデミクスと実務家が集まって、マジメに、だけれども、プレイフルに考えることにある。
この意味で、Aさんの会社の取り組みは、考えるためのヒントが非常に詰まっていた。
Aさんの会社では、1)人材育成と組織戦略を同期させるために、「人財組織戦略部」をつくったり、2)事業部の人々を研修づくりプロジェクトに参加させフィット感の高いプログラム作りをしたり、3)事業部の内部にトレーナーを養成したり、している。
Aさんは、人材育成部門のスタッフには、いつもこう言っているそうだ。
「仕事の3割は、新しい企画に費やしてほしい」
ルーチン化された仕事をこなすのではなく、毎年「常に目玉をつくること」を目指しているのだという。
Aさんの会社では、「人材育成担当者」を専門性をもったInternal Consultantとして位置づけているそうだ。そして、
「What value do you get from the internal consultant?」
という「問い」に対して、事業部の人々が、明確に答えられるような仕事をするべきだとしている。
日々業績に追われる事業部の人々が、直接外部の民間研修企業に研修依頼する場合に比べて、企業教育部門がからむことで得られる「付加価値」とは何か?
企業教育部門の未来を考える上で、非常に「本質的な問い」だと思った。
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ワークプレイスラーニング2008へのご出講、Aさんからは、ご快諾いただいた。非常に嬉しかった。これでワークプレイスラーニング2008の事例発表企業がすべて決まった!
企画委員会のメンバーの方々(学校法人 産業能率大学、株式会社 ダイヤモンド社、株式会社 日本能率協会マネジメントセンター、株式会社 リクルートマネジメントソシューションズ、NRIラーニングネットワーク株式会社、株式会社富士ゼロックス総合研究所)には、この場を借りて感謝いたします。ありがとうございました。
なお、今年のカンファレンスは、去年にまして、さらに気合いを入れている。なんと!、4月、5月の週末をかけて、実務家と研究者、登壇者が勉強会をひらき、事例を解釈し、再構成することから、準備を進める。ちなみに、準備は去年の2007シンポジウムが終了した直後から行ってきた!!
また、カンファレンス終了後には、この業界の関係者を集めたワークショップ形式のパーティを学内で開催する予定だ。
ぜひ、皆さんのスケジュール帳の10月31日の予定をあけておいてください。東京大学でお逢いしましょう!
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ワークプレイスラーニング2008
2008年10月31日(金) 午前10時 – 午後4時30分
東京大学本郷キャンパス・安田講堂
「企業・組織における教育・学習」の明日を提案するカンファレンス「ワークプレイスラーニング2008」を、来る10月31日(金)、東京大学安田講堂にて開催いたします。
一昨年は「ミドルの学び」に焦点をあて、約400名の方々のご参加を得ることができました。その様子は、テレビ東京ワールドビジネスサテライトでも取り上げられ、大きな反響となりました。
今年度のテーマは”新・企業教育部門に「何」ができるか?”。
研修企画の策定や内製を行ってきた従来の企業教育部門は、今、様々な「かたち」に変わろうとしています。
1990年代後半以降キャリア論が幅をきかせる中、一時は「不要論」まで飛び出した企業教育部門。企業の中には、教育部門の機能を大幅に縮小し、権限を各事業部や経営企画部に集中させたところもあります。また、中には、教育部門がその職務を大きく拡大し、これまでは行ってこなかった「組織文化マネジメント」や「現場へのプロセスコンサルテーション」に着手しはじめた企業もあります。
「企業における教育、そして学習」は、誰の手によって、どこで担われるべきなのでしょうか。今、「あるべき姿」をめぐって「モデルなき模索」が続いています。
本カンファレンスは、公共性の高い学術会議が開催される東京大学本郷キャンパス・安田講堂を会場として産学協同の体制で開催します。経営学、社会学、心理学、教育学のアカデミックバックグラウンドをもつ大学研究者と、企業・組織の担当者が、ともに知恵をだしあい、ディスカッションを深めることをねらっています。
あなたの会社に必要なのは「企業教育部門」ですか、それとも「教育」ですか?
企業・組織における教育、学習に関係するすべての人々のご参加をお待ちしております。
ワークプレイスラーニング2008企画委員会一同
投稿者 jun : 2008年4月16日 12:51
コンテンツか、コンテクストか!?
企業・組織人材育成の世界では、去年あたりから「コンテンツからコンテクストの時代に入った」と、まことしやかに言われている。
いつでも、どこでも、どんな組織でも使うことができて、マスを対象に開発されたパッケージ教材を提供することから、「今、ここ、あなたの組織」を対象にした、対面型の学習機会の提供に注目が集まっている。
ここでいうコンテクストとは、「学習者 - 学習者」あるいは「学習者 - 教授者」間のインタラクション。特に、職場単位での参加、組織ごとに参加し、インタラクションを行うことが、その特徴である。
顔をいつもつきあわせている人々の間でも、理解・認識・知識の量や種類、そして利害には差がある。彼らとのインタラクションを通じた「学び」や「気づき」が目指すべきものである。
しかし、そこで目指されているものは、必ずしも、知識が増えたとか減ったとかいう話ではなく、物事を見る枠組み(メジロー風にいうなら、準拠枠)の変容であるかもしれない。あるいは、人々の「つながり」、関係性の変容でもある。
インタラクションを、いかにクオリティの高いものにするか、そこからどのようなリフレクションを起こし、何を学ばせるか。そして、究極的には人々のつながり方や、関係性といったものを、いかに回復するか。そのあたりが「大問題」である。
---
しかし、この「大問題」を抱えつつも、我々は、それだけに関わっているわけにはいかない。
教育の世界は「振り子」である。それは、いつの時代も揺れている。右に揺れ、左に揺れる。
計画主義者は「揺れない状態」 - 別のことばでいうならば、理想の教育 - を夢見るかもしれない。しかし、揺れない教育はあり得ない。また、長くなるので説明は省くけれど、「揺れない教育」は危険でもある。
常に揺れつづける世界の中で、個別・具体的に現場をみつめながら、いかに、その現場にとっての「善」を求めるか。それが、教育にバックグラウンドをもつ人々の - 少なくとも僕のめざすべきところである。
今、「教育の振り子」は、コンテクストに振れている。
しかし、今は対極に存在しうるかのように見えている「コンテンツ」と「コンテクスト」をいかにつなぐか。これに対する思索は、既にはじまっている。
未来を見据える、ということは、そういうことである。
投稿者 jun : 2008年4月15日 07:19
会議は「例外」でなければならない!
先日、僕は「仕事のやり方を見直して、時間を確保しちゃうもんねー」という記事を書いた。
「仕事のやり方を改革する」ひとりプロジェクト
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/04/post_1204.html
そうしたら、いつもお世話になっている編集者のMさんから、下記の本をご献本いただきました。ありがとうございます。
ドラッカーの言葉は、ビジネス書で「枕詞」のように使われているので、これまであまり読んでこなかったのです。「ドラッカー曰く・・・・かくかくしかじか」みたいな感じで。
でもね、わたくし食わず嫌いでした。これ、読んでみると、なるほど、人気がある理由がわかりました。
下記は、僕が思わず線を引いてしまった言葉。
---
仕事のほとんどは、わずかの成果をあげるためでも、かなりのまとまった時間を必要とする。細切れでは意味がない。何もできず、やり直さなければならなくなる。
成果をあげるためには、大きな固まりの時間が必要である。いかに総量が大きくとも、細分化していたのでは意味がない。
(p50より引用)
・・・おっしゃるとおり! そして、ほおっておけば、いかに私たちの時間は「細切れ」にされやすいか。なんとしても、「細切れ」を避けて、「大きな固まり」を作らなくてはなりません。
▼
第一に、する必要の全くない仕事、何の成果も生まない時間の浪費である仕事を見つけ、捨てることである。
すべての仕事について、まったくしなかったならば何が起こるかを考える。何も起こらない、が答えであるならば、その仕事は直ちにやめるべきである。
(p58より引用)
・・・なるほど! しがらみや因習を裁ち切り、「もし僕がいなくても、全く何も起こらないこと」からは、手をひくことが重要なのでしょう。
▼
何よりもまず、会議は原則でなく例外にしなければならない。
皆が会議をしている組織は何事もなしえない組織である。時間の4分の1以上が会議に費やされているならば、組織構造に欠陥があるとみてよい。
会議が、時間の多くを要求するようになってはいけない。会議の過多は、仕事の組み立て方や組織の単位に欠陥があることを示す。
(p69)
・・・会議は「例外」にしなければならないというのは、まさにその通りですね。でも、これもほおっておけば、すぐに「原則」や「ルーチン」になってしまいますよね。
▼
時間は希少な資源である。時間を管理できなければ、何も管理はできない。その上時間の分析は、自らの仕事の中で何が本当に重要かを考える上でも、体系的かつ容易な方法である。
(p76)
・・・はい、わかりました。見直します。
---
そしてドラッカーは言うのです。時間を確保し、そこにリソースを集中させよ。そして・・・
自社の強みの上に、強みを築け!
投稿者 jun : 2008年4月14日 07:00
穴があったら入りたい遊び
週末、TAKUZOをなるべく外に連れ出す。
「だから風邪ひくのだ」と思われる方もいるかもしれないが、「元気なときのTAKUZO」は、とても1日家でおとなしくしている男ではない。常に「わさわさ」しているし、常に「絶叫」している。
昨日は近くのコミュニティセンターに、TAKUZOを連れて行った。
TAKUZOが昨日ハマッていたのは、「穴があったら入りたい遊び」である。
上の写真のように、穴のあいたクッションを並べてあげると・・・。
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それぞれの「穴」に入っては、大爆笑を繰り返す。
ひとつの「穴」を攻略したら、次の「穴」である。TAKUZOは決して途中でやめない、そこに「穴」があるかぎり。
その間、僕に仕事がないわけではない。TAKUZOが「とんでもない体勢」で穴に落ちて、動けなくなったときには、飛んでいって「お助け」申し上げなければならない。数分に一度は「出動」である。忙しい。
・
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ちなみに、この遊びが終わったのは「1時間後」であった。小生もお役目ごめん。「ふぅ、もう、穴はえーわ、飽きたで。次いこか、次」
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週末、子育て中の親にとって「休暇」はない。「仕事がない」、という意味で「休業」があるだけである。
否、正確にいうと、「仕事がない」わけではなく、「本来、週末にこなさなければならない仕事」を月曜日にまわしているだけである。ちなみに、僕は、明日は早朝勤務確定。
体力的には過酷。
だけれども、かけがえのない時間である。
---
追伸.
日曜日は遠出。TAKUZOを連れて「電車とバスの博物館」に行った。シミュレータで運転をしたり、HOゲージを見たり、大興奮だった。
博物館の中で、運転手の帽子をかぶり、白い手袋をはめた小学生を何人か目撃した。車内アナウンスを口ずさみながら、完璧にシミュレータを運転していた。ホンモノの運転手さんみたい。
きっと週末ごとにここに集っているのだろう。上には上がいる。でも、別にそーならんでいい。
嗚呼、僕の週末は、「電車漬け」である。
ありがたき幸せ。
投稿者 jun : 2008年4月13日 08:15
組織を「変革」するのは「誰」なのか!?ワークショップ:Learning barが終わった!
昨日は(株)ヒューマンバリュー代表取締役 高間邦男さんをおまねきして、「組織を「変革」するのは「誰」なのか?- 組織変革手法を体験するワークショップ」というLearning barを開催しました。
ヒューマンバリュー
http://www.humanvalue.co.jp/
Learning barへのお誘い
http://www.nakahara-lab.net/learningbar.html
4月の新入社員研修時期だというのに、30件近い企業から参加申し込みがあり、その中から申し込み順で16の企業・組織が参加しました。教室の関係上、それ以上の参加は難しい状況でした。今回ご参加いただけなかった方々、ご了承ください。
ちなみに、16の参加企業・組織は大変多岐にわたっています。大手半導体メーカ、生命保険会社、インターネットベンチャー、製薬会社、電力会社、医科系大学、看護専門学校・・・本当に様々です。
---
ワークショップは、いわゆるAI(アプリシエイシブ・インクアイアリー)の方法で行われました。
AIとは、僕の言葉でいえば、「組織のメンバーひとりひとりが、理想と思われる自分の仕事の仕方、組織のあり方を持ち寄り、対話を通じて、それを組織変革へと昇華していく方法」です。
この手法の背後には、社会構成主義などの哲学が色濃く反映されています。ちなみに、社会構成主義の泰斗ケネス・ガーゲンは、著書「あなたへの社会構成主義」の中で、AIを紹介していますね。
人々は多様なストーリーをもっていますが、そうしたレパートリーの中には、きっと、価値をもつもの、不思議なもの、面白いものがあるはずです。
組織にとって、ストーリーは銀行にとってのお金のように大切な資源です。つまり、(人々の)多様なストーリーを引き出してくることは、新たな未来の展望に投資することなのです。
ストーリーを人々が共有することで、そうした展望が実現可能であるという確信が生まれます。価値を認めるナラティブは、創造的な変化の力を解き放つのです。
(同書 p262)
---
以下、昨日のワークショップを、準備から振り返ることにしましょう。
上の写真は、開場前の会場です。テーブルに、色とりどりのテーブルクロスがかけらています。これらはヒューマンバリューの方々が準備してくれました。非日常的な感覚を演出することが目的だそうです。
上の写真は、ヒューマンバリューの方々です。手際よく、ワークショップを準備なさっていました。ありがとうございます。
上は、東大側の代表、事務局を担当してくれている坂本君@教育学研究科博士課程。課長、お疲れ様。
こちらは東大の大学院生たち。このほか、牧村さん@学環M2、坂本君@学環M2がお手伝いしてくれました。いつもありがとう。
---
早速参加者がぞくぞくとつめかけます。この日は、1つの会社から4名の参加、ということだったので、いつもと雰囲気が変わりました。
テーブルのそれぞれには「かめさん」「ぞうさん」とか、名前がついている。序列が生まれるのを防ぐため、番号では呼ばないそうです。上の写真はテーブルレイアウトの様子。かめさんチームとか、ぞうさんチームとか呼ばれています。
お料理はいつものDean and Delucaですね。ワインは20本ほど購入しました。さっそく、早く来た人から取り分けていきます。
Dean and Deluca
http://www.deandeluca.co.jp/
下記は会場の全景。当日は70名近い方々が、参加しました。
高間さんによるワークショップがはじまりました。
まずはチェックイン(自己紹介)です。
お互いに見知った中でも、最初は緊張しているものです。場がだんだんと和んできますね。
その次は、ハイポイントインタビューです。個人が考える理想 - 理想の働き方、組織のあり方を、相互にインタビューしていくプロセスです。
最初は、頭と頭の距離が遠かった参加者も、身を乗り出して、個人のストーリーに耳を傾けはじめます。「頭と頭の距離」は、この類のワークショップの活性度をはかる手軽な指標かもしれませんね。
---
今度はに、先ほどのインタビューによって抽出された「個のストーリー」を、持ち寄って、組織のあり方を、対話の中から見つけようとします。
グループで話し合った内容を、会場全体で共有します。
「M&A後、全く異なった意味体系、文化をもつ組織をどのように学習する組織にするか」
「創業当時の目標を見失っている組織を、どのように、活性化させるか」
「マネージャと技術職でわかれている研修体系を、どのように接合していくか」
などなど・・・それぞれの組織の課題が共有されていきます。
---
ワークショップは、5時からはじまって、8時30分あたりまで。その後は、中原が司会をして、リフレクションとラップアップをしました。
リフレクションでは、「今日、ワークショップで体験したことの意味」を話し合ってもらいました。中原によるラップアップ(解説)は、ケネス=ガーゲン、カール=ワイク、スターウォーズの台詞なんかをおりまぜながら、お話をしました。言いたかったことは下記の5点です。
1) 専門的知識をもち組織を分析し戦略を立てる「外部の人(コンサルタント)」と、彼のつくった戦略やプランを着実に実行する「内部の人」というダイコトミー(二項対立)のもとでは、なかなか組織は変わらない。
2) 結局、外部からもたらされる戦略やプランとは、組織変革のリソースのひとつに過ぎない。全くなければ「海図なき航海」になる。しかしあっても、安全な航海は保証されない。本当のことをいうと - むしろ、人は何かを夢見て、自らそれにトライし、さらにそれを振り返ったあとで、自分たちがなしえたことを「戦略」と結論することが多い。
3) 組織を変える、組織学習のシステムを構築しうるのは、結局、内部の「人々」による。「人」ではない。「人々」である。
4) まずは個人が夢見ること、そして人々がその夢 - ストーリーを交換することから、可能世界(Possible world : 未来)が広がる。May the force be with your dream
5) 可能世界(Possible world : 未来)は、人々のインタラクションの中にある・・・フォースを感じるのだ。
終了は予定通りの9時。本当にあっという間の4時間でした。
最後になりますが、4月の忙しい時期にご出講いただいた高間さん、準備をしてくださったヒューマンバリューの方々に、この場を借りて感謝いたします。素晴らしい学びの機会を本当にありがとうございました。
次のLearning barは5月30日!
近く、申し込みが始まる予定です。
また、本郷キャンパスでお会いしましょう!
Learning barのご案内はメルマガへのご加入から!
http://www.nakahara-lab.net/learningbar.html
投稿者 jun : 2008年4月12日 15:01
しましましまのとらじろう!?
B社の軍門に下ってしまった。
あべし(笑)。
でも、TAKUZO、朝起きたら喜ぶだろうな。
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さてクイズ。
上の「虎」の名前、どれが正しいでしょうか?
1.「しましましまのとらじろう」
2.「とらとらしまのしまじろう」
3.「しましまとらのしまじろう」
4.「とらとらとらのとらじろう」
僕は1番だと思っていた。
いつの日か、ちゃんと答えられるようになりたい。
投稿者 jun : 2008年4月11日 23:36
古典はいつまでも新しい
今年の大学院・中原ゼミでは、「実証研究の古典」を読むことにしている。先日読んだのは下記。三宅君が報告してくれた。学習研究をやったことのある人だったら、誰もが知っている論文である。
Chase, W. G., and Simon, H. A.(1973) Perception in chess.Cognitive Psychology, 4(1), 55-81.
被験者はわずか3名。使っている検定手法はシンプル。しかし、その「実験計画の美しさ」と「執拗なまでの分析」には舌を巻いてしまう。この「すごさ」は、一度でも実験計画を組んだことのある人だったら、わかると思う。
今から35年前の論文、しかし、その斬新さは変わらない。そして、それは、時代をこえて研究者を魅了しつづける。
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昨日は、午前中はD社の方々と、某社へヒアリング。とてもオモシロイことが聴けた。この内容は、今書いている本の最終章にまとめられる予定である。
その後は、某社のプロジェクトミーティングだった。非常にスリリングな研究になりそうで、こちらも楽しみである。12月頃には研究成果の発表をかねたシンポジウムを開催するとのことである。l
ミーティング終了後、F社の方々3名と、M先生とで六本木の中華料理屋で懇親会をした。とても面白かった。
今日はLearning bar!
そして人生は続く。
投稿者 jun : 2008年4月11日 09:33
日比谷・菊鮨で食らう
先日、企業でのヒアリングのあと、次の会議まで少し時間があったので、日比谷の「菊鮨」を訪ねた。この界隈で、僕がもっともお勧めするお寿司屋さんである。
菊鮨
住所 千代田区内幸町1-1-7 大和生命ビル B1F
TEL 03-3591-4444
土日休み
[ 地図を見る ]
ランチの握りは、握り8カン+巻物である。
「握り」にはほとんど「煮切り醤油」が塗られており、ことさら醤油をつけて食べる必要はない。そのまま口に運ぶ。
やわらかいタコ、ねっとりとしたマグロ、イキのよいアジ、酸味と酢がシャキッときいたコハダ。そしてもっとも気に入っているが、甘いタマゴ。うまい。
シャリは大きめで、これだけでお腹いっぱいになる。
これでなんと1260円。大学近くの界隈では、これより明らかにクオリティが低いのに、1600円近くかかる。また、少し歩いて銀座にいけば、このクオリティだと、明らかに3000円は超える。安い。
板前さんは寡黙ながらも、仕事は大変丁寧である。大変好感のもてる方である。
投稿者 jun : 2008年4月10日 13:23
オレは浸透されたくねーよな
6月13日のLearning barでは、リクルート「Works」編集長の高津さんにご出講いただくことになっている。「組織の価値は伝えうるのか?(仮称)」というタイトルで、デンソーにおける取り組みを、お話しいただけることになった。大変ありがたいことである。
先日、そのため、リクルートワークス研究所にお邪魔して、高津さんとディスカッションをした。高津さんとのお話は、あっという間に時間がたってしまうほどスリリングなものだったけれど、一番心に残っているのは、この言葉である。
「組織価値を浸透させたい、ってみんな言いますけど、社員の立場に立って考えてみてくださいよ。"オレは浸透されたくねーよ"と思いますよね、ふつう」
明日は4月のLearning barである。高間さん、ヒューマンバリューの皆さんには、お忙しいところ準備をいただいている。とても楽しみだ。
投稿者 jun : 2008年4月10日 09:43
MEET e-journal plusの公開
東京大学 大学総合教育研究センター 先進教育環境寄附研究部門で開発された、読解力育成支援ソフトウェア「MEET eJournalPlus」のパブリックベータ版が公開されました。
東京大学 大学総合教育研究センター マイクロソフト先進教育環境寄附研究部門
http://www.utmeet.jp/
MEET eJournalPlusのダウンロード
http://www.utmeet.jp/projects/ejournalplus.html
MEET eJournalPlusを使ったデモ授業の記事(日経)
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20071203/288650/
MEET eJournalPlusを使ったデモ授業の記事(BCN)
http://bcnranking.jp/news/0712/071204_9191.html
開発スタッフの皆様、お疲れ様でした&おめでとうございます。
●望月俊男さん
東京大学・特任准教授
●西森年寿さん
東京大学・特任准教授
●大浦弘樹さん
東京大学・特任研究員
●佐藤朝美さん
東京大学大学院後期博士課程
●渡部信一さん
マイクロソフトディベロップメント株式会社
●ヘンリクヨハンソンさん
シリコンスタジオ株式会社
●中村裕司さん
株式会社スパイスワークス
●大野喬史さん
株式会社スパイスワークス
投稿者 jun : 2008年4月 9日 14:36
「仕事のやり方を改革する」ひとりプロジェクト
3月22日、僕はブログにこう書いたんですね。
>「忙しいから研究できない」「研究したいけど
>時間がなくてできない」とは、「本当に研究し
>たい人」が口にする言葉ではない。本当に心の
>底から研究したいのであれば、あらゆる手を使
>って、何としても「ひとりで考える時間」を確
>保する。人間は、本当にやりたいことは、やる
>ものである。
>
>何としても、何とかする。
>オレはやる。
「オレはやる」なんて決意表明をして、それから2週間後、結果はどうだったのか。気になるところですね(僕だけか?)。
結論から言うと「成功」です、というか正しくいうと「成功の状態」が今のところ続いています。
時間は「与えられるもの」や「残るもの」ではなく、「自分でつくるもの」だということを実感しました。
どうやってそれを「実現」したのか?
簡単です。スケジュール帳に、最初から「研究時間」を書き込んでおく。これ、最強ですね。その時間は何が何でも死守する・・・というか、最初から「なかったもの」として扱う。
カミサンと子どもに何かあったときだけは、しょうがないとして、それ以外の理由では、絶対に削らない。これ、最強。
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ついでなので、いくつか自分の「時間の使い方」「仕事のやり方」を見直してみました。1週間、自分がどういう風に人とあって、どのくらい時間を過ごしているか、メモ帳にとってみた。すると、結構、時間をロスしていることがわかった。
まず、メールですむことを、わざわざ逢って打ち合わせている例が実に多いことがわかった。これは、すべてメールですますようにしました。
あと、頻繁に起こっているのは会議の延長です。議論に時間がかかっているのならいいのですが、はじまりが遅くて終了がのびたり、ダラダラと間延びしていることがわかった。
今までアポをかわすときには、はじまりの時間と場所だけをおくっていて、「終了時間」を送らなかった。今週から、これを変えることにしました。
ミーティングを設定する際には、「13:00-13:45」とか「13:00-14:00」という風に、時間を区切ることにしました。その方が、きっと集中して話ができてよいのでは、と思います。
あと、実に仕事のあいまあいまに「中断」が多いかもわかった。 集中して仕事をするときは、研究室の扉を「ロック」することにしました。あと、そういうときは、研究室の電話にも「出ない」ことにしました。
あと残っている「聖域」は「講演」です。
講演依頼をいただけることは非常に嬉しいのですが、講演のための準備時間、移動時間、当日の拘束時間は、非常に多いことがわかった。特に準備時間。ひとつの講演を準備するのに、ゆうに3日間はかけている。ここをいかに短くするか。あるいは、リソースの選択と集中をはかっていくか。これが次の課題です。
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「仕事のやり方」というのは、ほおっておけば、どんどんとルーズになっていく。僕だけかもしれないけど・・・。
時には、自分の時間の使い方を振り返ってみると、いいですね。「仕事のやり方を改革する」ひとりプロジェクトです。あまった時間は家族や大切な人と使いましょう。ワークライフバランスというしね、リサーチライフバランスも大変重要なことです。
投稿者 jun : 2008年4月 8日 10:41
国府弘子の今日からあなたもジャズピアニスト
ここ最近、夜な夜なジャズピアノの練習をしている。NHK教育「国府弘子の今日からあなたもジャズピアニスト」(毎週水曜日 午後 10時00分~10時25分)の「復習」である。
国府弘子の今日からあなたもジャズピアニスト
http://www.nhk.or.jp/syumiyuuyuu/jazz_piano.html
僕がピアノをはじめたのは、幼稚園に入った頃。それから中学まで、習っていた。でも、結構長いあいだやっているわりには、あまり上達しなかった。「楽譜を読んでそのとおり弾くということが、あまり好きではなかったこと」が、最大の理由だと思う。
そのかわり、「耳コピー」をして、適当にアレンジをするのは好きだった。「コピー」といってもめちゃくちゃいい加減ではある。が、いまだに好きな曲がテレビで流れるのを聞いては、キーボードに向かうことがある。
ジャズピアノは、前からチャレンジしてみたいと思っていた。でも、忙しくてなかなかピアノ教室に、決まった曜日に行くことはできない。と、諦めていたら、テレビでやるじゃないですか。
前回は、スウィング(Swing)だった。なるほどね、こうやって崩せばいいのか。「キラキラ星」も、「愛の賛歌」も、Swingすれば、全く違う曲に聞こえ出す。オモシロイね、ジャズって。
国府弘子さんによると、インプロビゼーションを可能にするのは、やはり「よい曲を、たくさん聞くこと」なのだという。ここでも、やはり守・破・離である。「型のない人」は、何も崩せない。というわけで、たくさんCDを買い込んで、修行している。
Swingしなけりゃ、意味がない。
投稿者 jun : 2008年4月 7日 08:01
花見
東大の大学院生さんたちが「花見」をやる、ということで、家族で参加させていただきました。
天気は快晴。とても楽しい会でした。TAKUZOも、大学院生さんたちと「交流」をしていました。下記は、中原研究室の脇本君とTAKUZOです。脇本君、パパのようですね。
場所取りは、9時30分からやっていたそうです。確かに混んでいたね。本当にありがとうございました。
春だよ、春。
来週から授業・ゼミがはじまります。
投稿者 jun : 2008年4月 6日 08:56
5月、6月、7月のLearning bar:速報
Learning barの5月、6月、7月の予定が決まりました、、、ふぅ。
■5月30日(金)
・クリエィティブ人材を育てる:
「博報堂大学」の挑戦(仮題)
クリエィティブ人材を育成せよ! この課題にチャレンジしている博報堂大学のお話です。カリキュラム、研究室制度についてお話しいただきます。
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■6月13日(金)
・組織価値をどのように共有するか(仮題)
リクルート Works編集長 高津尚志さん
組織のもつ価値観、DNA、文化・・・そうしたものは、どのように伝えればよいのでしょうか。
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■7月11日(金)
・プロジェクトマネジャーは育成できるのか?(仮題)
高業績のプロジェクトマネジャーは、一般的なプロジェクトマネジャーと何が違うのか。実験心理学的手法を用いた基礎研究の知見をもとに、プロジェクトマネジャーの育成について考えます。
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どれも、僕自身がお話をお聞きしたい「最近のホットトピック」ばかりです。皆さん、スケジュール帳にぜひ予定をいれておいてください。
場所はいつもの場所です。
東京大学 工学部2号館 9F 92B
大学院情報学環 教室
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_04_03_j.html
時間は午後6時からを予定しています。
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5月、博報堂大学は、4月中旬に募集要領をNAKAHARA-LABメルマガで配付します。まだメルマガにご参加いただけていない方は、これを機会にぜひ、ご参加ください。
Learning bar
http://www.nakahara-lab.net/learningbar.html
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追伸.
今年も研究室訪問の時期になりました。東京大学大学院 学際情報学府で中原の研究指導に興味のある方は、下記をお読みのうえ、ぜひ、ご連絡ください。
Wanna join us?
http://www.nakahara-lab.net/playlink.html
投稿者 jun : 2008年4月 5日 07:00
多声的混沌
神戸大学大学院 金井研究室のご出身で、「マネジャーのキャリアと学習」を著した谷口智彦さんが、先日来研した。
せっかくの機会であったので、荒木先生、長岡先生をお呼びし、4人でディスカッションをした。
ディスカッションのトピックは、「ナラティブ」「キャリア」「エスノメソドロジー」「批判教育学」「批判経営学」など。
ポストモダンの思潮の中、「組織における人の成長や学習に対する研究アプローチは、いかにあるべきなのか」・・・非常によいインスピレーションをいただくことができた。詳細は、現在、執筆している本の中で論じるものとする。
谷口さんは経営学、僕は教育学。
微妙にバックグラウンドは違うけれど、多くの部分で共通点があるような気がした。大げさにいえば、「底流に流れる思想」というのかな・・・もちろん、そう感じていたのは、僕だけかもしれないけれど。
最近、ビジネスの実務家の方々ばかりでなく、組織の学びを研究対象にしている心理学や経営学の先生方とお話しする機会も多くなってきた。以前は、わずか数年前は、全く「別の世界」であったものが、急速につながりつつあるのではないか。そう感じている。
「人間の学び」は誰の「縄張り」でもない。心理学、経営学、教育学、社会学。様々な分野のアプローチがあっていい。
自分たちにしかわからない価値を、自分たちにしかわからない言語で、自分たちの身内だけで消費する学問に未来はない。
真実はいつも「多声的混沌」の中にある。
そして、より重要なこと。
「多声的混沌」とは「ある」ものではない。
あなたが、自分の動きを通して「つくりだすもの」である。
・・・なんてね。
投稿者 jun : 2008年4月 4日 12:46
疾患と病い:アーサー・クラインマン著「病いの語り」
医師は、病気を「疾患(desease)」と捉えるが、「患者」にとって、それは「病い(illness)」である。
こう喝破したのは、ハーバード大学医学部の精神科教授でもあり、人類学部の教授でもあるアーサー・クラインマンであった。
アーサー・クラインマン
http://fas.harvard.edu/~anthro/social_faculty_pages/social_pages_kleinman.html
「病い」とは「個人が病気に関してもつ意味」、すなわち「物語」のことである。それは、自分の病気を患者が「語る」なかで構成され、いったん構成されてしまうと、患者の人生の中のあらゆる出来事の意味を統御する効果をもつ。
対して「疾患」とは「生物医学的な構造や機能の不全」である。たとえるなら、「胸の痛み」が「急性大葉性肺炎」に換言されるとき、「病気」は「疾患となる」ことになる。
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本書において使用する「病い(illness)」という用語は、「疾患(desease)」という用語とは、根本的に異なったものを意味している。「病い」という用語を使用することで、私は、人間に本質的な経験である症状や患うこと(suffering)の経験を思い浮かべてほしいと考えている。
(同書 p4)
「疾患」は治療者の視点から見た問題である。生物医学的モデルの狭義の生物学的用語で言えば、つまり疾患は、生物学的な構造や機能におけるひとつの変化としてのみ構成されるということである。
(同書 p6)
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医師は、患者との会話を通して、「病い」の中から必要な情報を抽出する。医師と患者との会話は、患者の訴える様々な痛みや不快の中から、「特徴的な症状」をよみとる作業でもある。
ドナルド=ショーンによれば、医師が医療の現場で出会う症例の80%は、教科書にのっていない症状を有している。
医療とは、「知っている事例」と「目の前にある患者が示す症状」のパターンマッチングではない。病いの中から、「症状」を抽出し、反省的かつ即興的に行われる意思決定行為である。
ちなみに、「特徴的な症状」は、過去の先行研究の中で、既に分類され、命名され、治療方法は標準化され、カタログ化されている。その背後には、ミシェル=フーコーのいう「権力」が、既に作動している。
患者は、医師の求めることがらを察知して答えることが、そもそも要請されている。それは明示化されていないものの、患者が自分にもたらされる便益を考えた場合に、果たすことを余儀なくされている義務である。それができぬ患者の症例は、「不定愁訴」になる。
患者との会話から抽出したデータに加えて、様々な医学検査を行って得たデータをもとに、病気の「原因」を同定する。それは、<科学的に物語を形成すること>でもある。物語は、永遠の「仮説」でもある。
僕の尊敬してやまない認知心理学者ジェロム・ブルーナーは、著書「ストーリーの心理学」の中で、法廷論争を「物語」に喩えた。それと同じことが、医学の現場でもおこっている。医師による「物語」の形成、それを世間では「診察」と呼ぶ。
しかし、「疾患」の「原因」がわかり、専門的な「診断」がついたとしても、患者の「病い」は、必ずしも癒されるとは限らない。
病気の中には、「原因不明の病気」がある。あるいは、覚悟をもって、長いあいだつきあわなければ「慢性の病気」がある。そうした病気に苦しむ場合、この傾向はさらに強くなる。
医師にとって最大の関心は、「何が病気の原因で、なぜこの症状が生まれたのか」である。だから「診断」がつけば - つまりは医師の中で完結した「物語」が構成されれば - 医師の立場では、ひとまずは満足である。
しかし、「患者」の関心は「この病気が治って、元通りの生活が営めるか、どうか」である。一言でいえば「治るか、どうか」。病気の「原因」は、わかるにこしたことはないが、医師ほど関心があるわけではない。極端なことを言えば、「原因」がわからなくても、「治ればよい」。
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患者と医師の関係は、信頼関係(ラポール)があればOK,とか、そういう「甘い」ものではない。
そこは「物語の闘争」の現場である。しかし、その闘争は「絶望」ではない。
最後にアーサー・クラインマン自身が、医師見習いのときに経験した物語をもって、今日のエントリーを終える。
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1960年代のはじめ、医学の2年目と3年目に在籍していた私は、数人の患者に出会った。(中略)
最初の患者は7歳の痛々しい少女で、ほとんど全身におよぶ重篤な火傷を負っていた。彼女は渦巻く水の中につかり、皮がむけ広がった傷口から火傷組織をピンセットで引きはがす治療浴に連日耐えなければならなかった。
この経験は彼女にとって恐ろしく辛いものだった。少女は叫び声をあげ、うめき、医療チームの努力をかたくなにしりぞけて、もうこれ以上痛い目にあわせないように懇願した。
かけだしの臨床学生としての私の役目は、少女の火傷を負っていない方の手をにぎって、できるだけ元気づけなだめながら、レジデントの外科医が、生命を失い化膿した皮膚繊維を、うず巻く水浴槽のなかで、すばやく引きはがすことができるようにすることであった。浴槽の水は、すぐに淡い紅色にかわり、やがて濃い血の色に変わった。
連日の恐ろしさに私はほどんと耐えられなかった。少女の叫び声、血液で汚れた水中に漂う生命を失った繊維、皮膚をはぎとられた肉、出血が止まらない傷口、清潔にしたり包帯をしたりすることをめぐる戦い。
そんなある日、やっと気持ちが通じるようになった。
考えあぐね、自分の無知と無力に腹をたてて、その小さな手をしっかりとつかむこと意外に何をしたらよいのかもおぼつかず、彼女の容赦ない苦しみに絶望したすえに、私はその少女に尋ねていたのである。
あなたはどのように苦しみに耐えているのか?
こんなにひどい火傷をして、連日連日ぞっとするような外科的処置を受けるのは、どんな気持ちなのか話してもらえないか。
彼女はかなり驚いた様子で、呻くのをやめ、変形のため表情を読み取ることも難しい顔でこちらを見つめ、それから単刀直入な言葉遣いで、わたしに語った。
話しているあいだ、彼女は私の手をいっそう強く握りしめ、叫ぶことも、外科医や看護婦を退けることもしなかった。(中略)
彼女は、患者のケアにおける貴重な教訓を私にもたらした。
それは苦痛の極にある患者とでも、実際におこっている「病い」の経験について語り合うことは可能であると言うことであり、その経験を整理するのに立ち会い、助力することが治療的意味をもちうる、ということである。
(同書より引用)
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闘争の中にも「希望」がある。
投稿者 jun : 2008年4月 3日 00:01
注目の英会話教材:リトル・チャロ
昨日は「真新しいスーツに身をつつんだ人」を街で見かけることが多かったですね。新年度、4月ならではの光景です。
社会人1年目の彼らに、僕が偉そうにアドバイスをするなら、「焦るな、くさるな、諦めるな」です。そら、新しい環境に慣れるまである程度は時間がかかるよ。あんまり、焦らないでね。
閑話休題
4月の風物詩というと、もうひとつありますね。本屋に出かけると、それが何かわかります。平台に山積みになっている「英会話のテキスト」を見かけるはずです。これ、5月にはもうなくなってるから(笑)。それが毎年4月の光景です。
でも、今年は例年とは「ひと味違う番組」があらわれました! テレビ×ラジオ×テキスト×ネットのクロスメディア英会話番組「リトル・チャロ」です。
リトルチャロ
http://www.nhk.or.jp/charo/
チャロとEnglish!
https://cgi2.nhk.or.jp/charo/php/index.cgi
教育工学関係者が「ひーひー」と喜ぶメディアミックス系の構成です(笑)。「メディアミックス」とは、もともと「広告手法」の言葉ですね。複数のメディアにわたってサービスプロモーションを行うときに使います。
教育の文脈では、「様々なメディアの特性を活かして、それらを組み合わせて利用し、高い学習効果をあげようよ」ということです。教育工学では、1980年代に、結構研究されました。ちなみに、その中心になったのが、わたくしが学んだ「大阪大学」です。
メディアミックスは、言うのは簡単です。
「つーか、メディアミックスすりゃいいんじゃない!」
おいおい簡単に言ってくれるねー、そこの若いの。
という感じで、メディアミックスはカリキュラム作成が非常に複雑になります。学習者の学習進捗を予想して、内容を構成しなければなりません。
これがいかにややこしいかは、カリキュラムというものを自分で一度構成したことのある人ならわかるはずです。
ただでさえ、マジメにやるとややこしいのに、メディアが複数あんのかい!
思わず「ちゃぶ台」をひっくり返したくなること請け合いです。ひっくりかえそうと思っていた「ちゃぶ台」に「自分」が乗っていたって状況で、笑えないでしょうけど。
開発は相当チャレンジングではないでしょうか。おそらく、この番組もかなりの工数とコストがかかっていると思うのですが。
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ストーリーもなかなかオモシロイです。
日本から飼い主の翔太とその父と、アメリカに旅行にきた愛犬チャロ。一緒に日本に帰るはずだったのに・・・なぜか広い空港にひとりぼっちでとり残されてしまう。そこからチャロの冒険がはじまる。
チャロは、アメリカの犬たちと出会い、次第に英語を覚えていく。時には可愛がられ、時には危機に瀕し、様々な事件に巻きこまれながら、一人前ならぬ、「一犬前」に成長する
はたしてチャロは、無事日本に帰れるのか。
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おお、チャロ。JFKに取り残されてしまったのかい、可哀想に。涙を誘うね、可哀想なお犬だ。
この番組には、僕もチャレンジしてみようかな、と思っています。英語の勉強もそうですが、教材開発の観点からも、何か参考になるか、と。
三日坊主ならぬ、4月坊主にならんようにね、気をつけなきゃね。
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追伸.
前期授業「組織学習システム論」の日時・場所が決まりました。火曜日3限13時から、本郷キャンパス・工学部2号館・93B-1です。
投稿者 jun : 2008年4月 2日 06:48
プロジェクト学習を効果的に行うツール:Probo
プロジェクト学習を効果的に行うためのツールが、ダウンロードできるそうです。素晴らしい試みですね。望月先生@専修大学、西森先生@東京大学、八重樫先生@立命館大学、加藤先生@NIMEらのプロジェクトです。
プロボ
http://pb.nime.ac.jp/index.html
イラストによる解説がとてもわかりやすいですね。
投稿者 jun : 2008年4月 1日 23:19
今日から新年度:「元気な大学」考
新年度を迎えるにあたり、多くの大学関係者から、「離任」のご挨拶をいただく。
お知らせ一件一件になるべく返信をしている。お世話になった方ばかりなので、そのときのお礼もかねてである。
メールを書いていて、心の底から思うことがある。文章にしてしまうとアタリマエダのクラッカー!?(死語)なのだが、「大学における知的営みは、様々なスタッフに支えられて成立している」ということである。
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教育学者のよく使うレトリックに、こんなのがある。
「大学の本質は教育だから、授業をよくすることで、大学はよくなり元気になる、だから教員の授業の質を高めなければならない、教員をエンパワーメントしなければならない」
これはある面では正しいし、そうした努力を怠ってはならぬ。僕はその社会的意義を否定しない。しかし、この見方は、大学の知的営みを「授業」に限定するがゆえに、ともすれば、重要な側面を見落としてしまいがちである。
思うに、大学の知的営為は、いわゆる狭義の「授業」だけで成立しているわけではない。「研究」があり、「社会貢献」があり、「産学連携」がある。多くの場合、すべてはつながっている。
そして、教員だけでこれらを達成できるわけではない。事務職員や様々な専門職員のサポートによって、それらは「つながること」ができるのである。そういう意味では、大学を支える人々の仕事は、「つながっている」。
ゆえに「大学をよくする」「大学を元気にする」ためには、教員以外のスタッフも、「元気」に働ける環境になければならないし、その仕事によって、教育以外の多くの事柄を達成しなければならない。
たとえば、僕は共同研究契約の都合で産学連携本部、法務担当にお世話になることが多い(僕は、外部の機関と何かを行う際には、すべて契約をする)。
彼らのサポートなしでは、研究をスタートすることもできない。研究ができないということは、授業に最新の研究成果を反映することができず、結果として授業の内容は、一昔前のものになってしまう。
研究をしていけば、様々な会計処理、購入手続き、書類作りに追われる。これらの仕事をすべて僕一人で達成できるわけではない。能力の問題もあるが、時間の問題もある。そうした事務手続きに精通した専門のスタッフがいる。これらの方々のサポートによって、授業を工夫する時間が生まれたり、シラバスを最後まで練り直すことができるのである。
「元気な大学」とは、教員を含め、様々なスタッフがお互いを支え合い、元気に働くことのできる組織である。アタリマエのコンコンチキ(!?・・・ちょっと変えてみた)であるが、残念なことに、このことが理論射程にはいっている教育学研究はそう多くない。
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さぁ、今日から「新年度」。
気持ちを新たにして、頑張ろう。
投稿者 jun : 2008年4月 1日 09:38