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" Tulips in winter " by Miwa
2005/02/28 「普及」考 教育学は実践の学である。直接的であれ、間接的であれ、研究成果が教育実践の改善に何らかの「よい影響」を及ぼすことが、そもそも求められているように思う。
なんて青筋をたてて怒る人もいるかもしれない。むろん、あったっていいし、そういう研究は実際に多い。 だけれども、どんなに怒ろうとも、それが、いわゆる「教育」研究である限りにおいて、「教育」に「いつかは役にたつこと」が求められるし、そういう「筋道」や「論理」をもって研究に向き合うことが社会的に要請されていると僕は思う(大学という場所に身をおかず、自宅でひとり研究を行うならば話は別かもしれないが)。 さらに述べるならば、教育学は、それがどんなに価値中立な学問であろうとしても、そうなることはあり得ない。はたまた、教育学の研究者自身が、どんなに「自分は事実を客観的に報告するだけ」というスタンスで研究をしようとしても、そうした研究が政治的中立性を確保できるとは限らない。 わたしたちは求められている、そして偏っている。 このことに無自覚な研究を、少なくとも僕は信用できない。ちなみに、これらのことは、別に教育学の外部から押しつけられた視座ではない。1980年代〜90年代の教育学によって内部から批判され、継承されてきた知見である。「内部」から生まれた批判に無自覚である研究は、余計に僕自身は信用できない。 --- ところで、先に「教育によい影響を及ぼす」と述べたが、これには議論が必要である。 研究者が、研究知見を紀要や学術雑誌などで公表することも「よい影響」になるし、研究室で生み出した理論を伝えることも、それにカウントしようと思えばそれになる。何が「よい影響か」は必ずしも自明ではない。 しかし、一般に「よい影響」といった場合に、引き合いにだされるのは、「理論の普及」「研究成果の普及」「ソフトウェアなどのプロダクトの「普及」であろう。 普及... いずれにしても、我々はこの「普及」について考える必要がありそうである。我々は「普及」ということについて、自分の立ち位置を決めておく必要があるのではないか、或いは、自らの立ち位置を決めようと悩むことが必要なのではないか、と僕は思う。 「普及」に関して思いをはせるとき、僕はいつもそれに関する「ナイーブな神話」を思い起こさずにはいられない。教育学研究者が、「普及」について詰問されたとき、頻繁に用いる言説についてである。 その言説は、下記のような形式をとる。
この言説の要旨はこうである。一人の教育学研究者が相手にするのは、「ある教室の営み」であり、その営みの改善に役たつように振る舞う。あくまで一人の研究者は、ひとつの場所にこだわる。で、そういう研究の志向性をもった研究者が増えていくことで、「普及」をはたそうとする。 正直に告白すると、学生時代の僕は、この言説に魅了される人間のひとりであった。 研究する人間にとってできることは限られている。これは紛れもない事実である。そして限られた範囲内で、限られた場所において意味のある成果をだしていくことが、そうした試みこそが、重要なのであり、確実な「普及」を約束する。 しかし、よく考えてみればすぐわかるとおり、この言説の実現可能性は極めて低い。 よって、今の僕は、先の言説にはとうてい魅了はされない。それが輝きをもって見えた頃には戻れない。 しかし、それにも関わらず、この言説を完全に拒絶することもできない。 --- はたまた、こういう人もいるかもしれない。
この言説は、先ほどの言説よりはマシのように思えるけれど、やはり弱点があるようにも思う。 研究者が教育実践現場に入り、莫大な研究費と人材を投与し、実践者と手をとりあいつくった授業が「うまくいく」のは、ある意味、「アタリマエ」である(もちろんうまくいかない場合も多いが、うまくいく可能性はフツーの授業に比べて格段に高い)。しかし、フツーの学校や授業は、そんなに「恵まれて」はいない。だから、共感してくれた現場の先生がいたとしても、それを十全に実施できる場合は、非常に少ない。 八方ふさがりである。 --- このように「普及」ということを考えるとき、僕は、いつもわからなくなる。どうしてよいのか、正直に、僕にはわからない。「自分の立ち位置を決めろ」と先に書いたが、今の自分が、その「立ち位置」がどうにも決められず煩悶していることを告白しなければならない。 力さを感じることがある。 「普及」に対する僕なりの答え、いつかはでるのかもしれない。 2005/02/27 ワールド 先日、ワールドのファミリー販売会へカミサンとでかけた。
ワールドっていうのは、「TAKEO KIKUCHI」とか「INDIVI」とか「UNTITLED」とかのブランドをだしている会社ね。今回は、カミサンのいとこの「のりこねーちゃん」が、かつて「ワールド」でデザインをなさっていた関係で、ご招待してもらいました(ありがとうございました)。 ファミリー販売会は、通常価格の70%OFFなんです。正規の価格で買うのはアホくさくて仕方がなくなるほど安い。販売会、朝は10時から開始だってことで、前の日は、少し早く寝て早く起きる予定だったんだけどね。 これが甘かった。カミサンには「目覚ましが鳴ったら、スイッチ消してまた寝る」習性があるわけです。おいっ!。というわけで、でかけたのは12時を回ってからになってしまいました(笑)。 でも、まぁ、大丈夫だろと僕もタカをくくっていたところはあるんだけどね。正直、このところ本当に忙しくて、週末くらいは寝たかったからね。 で、結局、これが甘かった。会場についたら、スゴイ人です。 かつ、やっぱり遅く行くとないわけよ、モノが。僕は定番のスーツが欲しかったんだけど、あるのは全部Sサイズだけさ。入らねーっつーの。肉が漏れるわ。 --- 教訓.販売会は朝一にでかけよ。 --- それにしてもさ、ワールドだけじゃなくて、こういう販売会って会社にあるんだろうね。たとえば、「コムサ・デ・モード」の「ファイブフォックス」とかさ。販売会には、一見さんは行くことができません。ご招待がいるんです(僕がその場で住所のわかった何人かの人は、次回、オハガキがくると思います。ご招待しておきました)。 誰か、ワタクシめをご招待してはいただけませんでしょうか。 2005/02/26 そして哲学へ 中村うさぎは、僕が大好きなエッセイストのひとりである。
月々の支払いが200万を超えてしまうという「ブランド狂い」「お買い物狂人」として名をはせた彼女であるが、最近では、ホスト狂い、はてにはプチ整形、本格整形にまで手をだしてしまう。まさにガハハ系破天荒人生。 しかし、そうだからといって、かっこつけることはなく、かといって、自分を卑下するわけでもない。オモシロおかしく、淡々と、自分の狂いっぷりを描写する。本当に読んでいて飽きない。愉快で仕方がない しかし、「読んでいて愉快」というだけが彼女の文章の魅力ではない。最近のエッセイでは、なにやら哲学めいた問いに、時に煩悶する彼女に出逢うことが多くなってきた。 プチ整形に狂ったときなどは、「顔とは何か?」、そして、「自意識の奥深くには何があるか」など、マトモに考えていては、とてもでかすぎて答えがでないような問いに対して、自分の経験をもとに答えをだそうとする。行けるところまでいってしまった人間がたどり着いた境地なのかもしれない。 単に「読んで愉快」というだけでは、ここまで惹かれなかったかもしれない。愉快さの奥深くにある深遠な哲学的問い、それが時々見え隠れするところに彼女の魅力がある。 是非、ご一読を。 2005/02/25 RSS なんと!、この日記をRSSにはき出してくれるプログラムを、久松君が開発してくれました。
これでRSSリーダーを使って、この日記の更新を知ることができますね。久松君、本当にありがとう。 いやー、それにしても、こういうのをサクッとつくってしまうのはスゴイねー。嬉しいです、ありがとう。だけど、とりあえず夜はよく寝ようね、カラダは大切だからね。 ということで、RSSリーダーを利用している皆様、是非、ご利用ください。 2005/02/26 マクロなもの、ミクロなもの 経済学には、いわゆる「マクロ経済学」「ミクロ経済学」がある。 僕は専門外なので、詳しいことはわからない。が、学部教養の知識を駆使して誤解をおそれず語るならば、マクロ経済学とは「景気とか、金融、政策、とかの国レベルの問題を対象にした経済学」で、ミクロ経済学とは「貯蓄、消費とかの個々人の行為レベルの問題を扱う経済学」であると記憶している(間違ってたらすまん)。 両者はいうなれば守備範囲が違う。 「マクロな問題」を考えるときは「マクロ経済学」、「ミクロな課題」に答えをだそうとするときは「ミクロ経済学」という風に、それぞれ武器を持ちかえる必要がある。 --- この「マクロ」「ミクロ」という概念を教育の議論に援用し、苅谷剛彦先生が興味深い議論を展開していた。 教育の議論では、なぜかおうおうにして、「国レベルの教育システム全体がいかにあるべきかという問題」(マクロ的な問題)と、一人一人の子どもや個々の教室の課題(ミクロ的な問題)を区別できないのだという。 上記の本から、少し長くなるが、以下に引用してみよう。
確かに「一人のやる気のある教師」が行える「スバラシイ授業」が、どんなに「ステキ」だからといって、それを国レベルで実施・普及するべきだ!ということにはならない。 「ある教室で、ステキな授業をいかにつくるか」という問題(ミクロな問題)と、「国全体でいかに実施するべきか」という問題(マクロな課題)は、全く別次元の問題なのである。 しかし、苅谷氏がいうように、確かにそれは混同されやすい。 教育の議論を行うときは、マクロな視点を持たなければならないことは言うまでない。それは社会科学的な知のあり方なのだろう。ミクロな課題に日々取り組んでいるものは、「マクロな視点」を失っているか、あるいは、忘れてしまいがちである。 --- しかし、ここまでの指摘の重要性をすべて認めた上で、敢えてもう一言僕が勝手につけくわえるのならば、「マクロな視点だけでも教育現場は変わらない」ということである(別に苅谷先生がマクロな視点だけで教育はかわると行っているわけでは決してないですので、あしからず)。 マクロな視点にたって、モノゴトを分析し、その結果がどんなに正しく、学術的に素晴らしくても、はたまた、国レベルの制度を綿密に設計しようとも、それ「だけ」で何かが変わるほど現場は単純ではない。 マクロな視点にたった分析によって、どんなにキレイな教育学的知が生まれようとも、どんなに整合性の高い制度をつくりだしたとしても、それ「だけ」で現場は変わらない。数字や制度の力は非常に強力ではある。そして、それは変革の重要な手段である。しかし、現実の教育現場はそれとは全く異なる次元、価値体系で動いている。 教育現場を少しずつ変えて行くには、「一人のやる気のある教師」が行う「ステキな授業」も必要だし、「決してすべての教室で実施できるわけではないけれど、数年先に現実になるといいなぁと思えるような教育の実践、教育システム」も必要だ。そして、それらを少しずつ広めることも必要だ。そうした活動によって、他の教師や親を魅了することも重要なことなのである。 マクロな視点とミクロな視点 - もし本当に教育現場を変えようと試みたいのであれば、そのどちらも持ち合わせる必要がある。両者がお互いの知のあり方に不足するものを補いつつ、寝技・足技を駆使して、少しずつ現場、国は変わっていく。 僕はそう思う。 2005/02/25 オトクな本 本日、ようやく「大学eラーニングの経営戦略」が印刷所に入稿しました。この本、3月20日に東京電機大学出版局から発売されます。 この装丁の本が書店にならぶ日は近いです!
この本1冊を読むだけで、1)現在の日本の大学eラーニングの動向、2)東京大学、玉川大学、青山学院大学、佐賀大学、東北大学の先進事例、3)eラーニングをささえる組織づくり、4)eラーニングテクノロジーの動向がわかります!? なんてお得な本だわな! 是非、ご一読いただければ幸いです。 2005/02/23 荒走り ケータイを活用した科学教育パッケージ開発プロジェクト「Fish」の制作を依頼するため、NHKエデュケーショナルへ。ディレクターの大房さんと予算ふくめて打ち合わせ。ディレクションを快諾いただいた。 打ち合わせ終了後、大房さん、宇治橋さんとでお食事にいくことに。今日いったのは、大房さんの20年来のなじみの寿司屋「蛇の健」。
美味い! あとオチャケね、ここでは森田酒造の「萬年雪 荒走り」という日本酒をだしています。芸術的な飲みやすさでした。荒走りは、少しアルコール度数は高いのですね、だけども飲みやすい。「人をダメ人間にするお酒」というのかね、堪能できました。
2軒目は、「渋谷のんべい横町」の一坪バーへ。1日前からつくりおきしてあるイモ焼酎を堪能しました。 今日は、非常に楽しい時間を過ごすことができました。 2005/02/21 ちょろちょろ 性格なのかもしれないが、僕は「狭間」が好きだ。「狭間さん」という人に恋慕の情をもっているという意味では、決してない。 「何か」と「何か」の狭間に自分をポジショニングしたり、「何か」と「何か」の狭間をブリッジングして、何かオモシロイことができないか、と企んでみたり(結果、本人だけオモシロがっていることも多々ある)、背反するような2つの価値の両立をめざしたりするのが、どうも、性に合っているような感じがする。 考えてみれば、僕の専門である「教育工学」は、まさに「教育」と「工学」の狭間の研究領域である。 教育工学の研究者のよく口にする言葉に、「あんたは教育畑、それとも工学畑?」というのがあるが、僕はそれを聞くたびにとても違和感を感じる。こと自分に関していえば、「教育工学畑だ!」としか言いようがない。僕は「敢えて狭間にいますよ」ということがアイデンティティの一部になっているからだろう。 ちなみに、中原家の家訓第2条である「夢見るリアリストたれ」も、「夢想家」と「現実主義者」の狭間人をめざせ、ということである(ちなみに、第1条は「働かざるもの食うべからず」である。カミサン、日々労働!?、残念!)。 ただし「狭間に生きる」とは、一見、潔くかっこよさそうに見えるけれど(思えないか...)、ひとつ間違えば「中途半端」と批判される要素をもつことになってしまう。 面向かって「でも、中原くんはさ、中途半端でしょ」と言われると(さすがに面向かって言われたことはないけどね)、一瞬はひるむ。自分の「中途半端さ」については、思うところがあるからである。 ただ、たとえそうだとしても、やっぱり僕の強みは、「狭間」であるような気がしている。それがたとえ「中途半端」と揶揄されようとも、一見「弱み」にみえるそのことが、どうも、自分にとっては、しっくりくるし、そういう場所にいるときが、なぜだか知らないが、快い。狭間にいるというのは、一見、中途半端に見えるかもしれないけど、それはそれで苦労が多い。どちらの領域の知識もある程度はもち、「ここはコネクトできるかもね」というような感じで、常に見つめていなければならないからだ。 正統的周辺参加の理論でいうならば、各コミュニティのバウンダリーを行き来しながら、「あーどうも」といっている感じかな。そういう人は、理論上、「ブローカー」と呼ばれるんだけど、まさにそういう人になりたいのかも。今の僕は、単なる「ちょろ松」だけどね(実家では、チョロチョロしているヤツは、チョロ松とよばれる。なぜだかは知らないけど)。 穴があったら入りたい、とは思わない。 2005/02/20 新潟大学 先日、新潟大学で開催されたシンポジウム「高等教育におけるeラーニングの実践と展望」で基調講演を行わせて頂いた。新潟大学学長、理事などの前で発表させていただくのは、とても緊張したが、まぁ何とか「オツトメ」をはたすことができた。 参加者の先生方は、それぞれの学部で「教育の情報化」に取り組んでおられる方が多く、講演後のパネルディスカッションでは、多岐にわたる質問が寄せられ、嬉しかった。 今回、僕を呼んでくださったのは人文学部の北村順生先生だったが、かえって、大変お世話になってしまった。8時の新幹線を待つあいだ、新潟の郷土料理、おチャケ「〆張」などを、ごちそうしてもらった。ありがとうございました。 結局、自宅についたのは午後11時。 2005/02/19 会計 飲み会の席などで、たまに人に下記のようなことを聞かれることがある。
この問いに対する答えは、「僕が家計をにぎっています」でもなければ、「カミサンに握られています」でもない。正直にいうと、「誰も握っていない」。 我が家は、夫婦二人でヒーコラ働き、何とかかんとか生計をたてている。そしてお互いの給料の何割かを、「ナカハラ・ホールディングス」という「バーチャルな親会社(二人の共通の銀行口座)」に全納している。ちょうど、親会社に「売り上げ」を納めるフランチャイズチェーンに似ている。 光熱費を含めて様々なお金は、この「ナカハラ・ホールディングス」が運用している。運用といっても、何もしていない。単に、自動的に引き落とされているだけである。「勝手に落としてちょ」という感じで、この上なく、実感がない。 貯蓄も自動的に行われる。親会社が毎月きまった時期になると、さらに別にもうけられた銀行口座に自動的に振り込みを行うだけだ。ちなみに、「貯蓄されたお金」は、なぜだかわからないが、「公的資金」と呼んでいる。たぶん「手をつけてはいけないお金」だから、そう呼ぶようになったんだろう。 ちなみに、結婚したときから、我が家はこのシステムで動いている。 しかし、問題はたまに「子会社」が不良債権をかかえ、経営破綻する可能性がでてくることである。そういうときには、親会社が無条件融資を行うか、あるいは、「公的資金を注入する」しかない。 でも、このシステム、僕のような家庭にはおすすめである。完全に独立したお財布をもつことができるし、頑張って働いた分は、すこしであるが、より多く手元に残る。「毎月○万円」の決まったおこづかいというシステムでは、あまり頑張って働こう、という気にはならないのではないだろうか。 失われた10年の日本経済 - 我が家のシステムはその縮図である。 2005/02/18 船長の舌 先日、お風呂の中で、愛読書「ニューウェーブ・マネジメント」を読み直していたら、脚注の部分にオモシロイ言葉を発見しました(僕はいつも風呂につかりながら読書をします)。
この言葉、「人に任せること」の重要性を説いています。 組織をになう船長は、たとえ、自分がやったらより早くできる仕事であっても、部下に仕事を任せるべきところは任さなくてはいけない。たとえ、任した仕事が遅々として進まなかったとしても、ある程度は「待つこと」ができなければならない。そもそも、部下を信用しなければならない。 仕事を人に任せ、待つこと - 手や口をだしたくなったとして、血がでるまで舌を噛むこと - ができない人は、船長の器ではない、ということを言いたいのですね。 非常に含蓄がある言葉だな、と思って、風呂場で一人で感動したのだけれども。そう思わない? 2005/02/17 お役立ちデータ メディア教育開発センター吉田文先生、田口真奈先生による「eラーニングに関する実態調査」の結果が公表されました。
日本の大学では、授業でどの程度いわゆる「eラーニング」が使われているのか、はたまた学外・国外とはどの程度連携しているのか、また実施の際に最大の課題はなんなのか?、がよくわかると思います。 是非、ご覧ください! 2005/02/16 美味しいお店 最近行ったレストランで、美味しいな、と思ったところをメモしておきます。自分の備忘録になるしね。独断と偏愛に満ち満ちていますので、ご注意を。
2005/02/15 最近思うこと 時々、思うことがあるのです。 研究者になってからというもの、どんどんと「わかっていること」が少なくなっているのではないか、と。 もちろん、知識をアップデートする努力はしているつもりです。でも、それにはかかわらずして、どんどんと「わかっていること」が少なくなってきているように感じるのです。 ちょっと前までは、自信をもって断定できたそのことが、いろいろなカタチをもちはじめたように思うのです。昔は「わかっていること」と思っていたそのことが、万華鏡のようにカタチをかえはじめ、「わからなくなって」きている。 日々自分がしゃべっていることばを振り返ると、「そりゃ、わかんないなぁ」「なんとも言えないなぁ」と思うことが昔より多くなってきているような気がするのです。 「わからないこと」「すぐには判断つかないこと」「曖昧なこと」・・・世界には満ちあふれているようです。 「わからないこと」は少し苦しい。 2005/02/14 イギリス人のウィット 先日読んだ本の中にでてきたことばで、ムムムと思ったもの。
この言葉は、イギリスの歴史家パーキンソンが残したものだそうです。ムムム、確かにと思う。6人かどうかは別にして、会議はある一定人数をこえると「新春大放談」になっちゃうところがある。 民主制といえば、まぁ、ニュアンスは少し異なるけど、イギリスの宰相チャーチルがこんな有名な言葉を残していますよね。
要するに、「民主主義は他よりはマシ」だってことを言いたいわけです。なんて皮肉屋さんなんだろう。 皮肉屋さんといえば、僕が一番好きなのは、同じくイギリス人の天才劇作家バーナード・ショーの残した有名なエピソード。絶世の美女といわれた女優が、バーナード・ショウにこういったことから話ははじまります。
こういう女優に対して、バーナード・ショーはこう答えたと言います。
ウマイ! はたから聞いてるぶんには座布団2枚って感じだけど、かなりイヤなヤツだね(笑)。 それにしても、今日紹介した名言はすべてイギリス人のものですね。イギリス人は名言を残すのが好きなのか?それとも、イギリス風のアレンジのきいた名言を、僕が好んでいるのかな? あっ、そうそう最後にもうひとつ、イギリス人のウィットを紹介。イギリスの歴史家「エルトン」の言葉。権力は分散せよ、至極名言だと思います。
2005/02/13 ラーメンふるき 僕が北海道旭川出身です。そのことを知った人の中には、「旭川といえば、醤油ラーメンですよね」と声をかけてくれる人がいます。嬉しいです、旭川の唯一!?の自慢を知ってくれていて。でもね、よくよく話を聞いてみると、そういう方々の多くは「旭川は醤油、札幌は味噌」という風に思っているのですね。 こういうカテゴライズがなぜ生まれたかはよくわからないんだけど、少なくともジモティ(旭川の地元民)にとっては、「旭川は味噌」だと思っているところがあるのではないでしょうか(オレだけか?)。 だから、旭川が醤油と言われると少し変な感じがしちゃうんですね。で、ここだけの話、旭川民は多くの場合、「札幌の味噌」を認めていない! 「あったら都会のすかした味噌ラーメンは、ホントウの味噌ではない」とか「なんも、札幌までいかなくても、味噌だら旭川にあるべさ」とどこかで思っていることがある(ゴメン、札幌出身の人)。 そんな頑な元・旭川民のひとりがオススメするラーメン屋といえば、ここですね。ラーメンふるき。これ、最高。
濃厚な味噌スープに、こしのあるちぢれ麺。至高の味噌ラーメンといえるでしょう。旭川に帰ったときにはかならず食べにいきます。うちのカミサンは大好きで、汁まですべて飲みほしてしまいます、おかわりしそうで怖いくらいに。 「ふるき」は旭川駅からタクシーで20分くらいのところ、住宅街のホントウにど真ん中にあります。ほとんど観光客はいません。地元の人ばかりです。この交通の便の悪さ故に、観光客は足が遠のくのでしょう。でもね、地元の人でいつも満員です。 11時あたりから店はやっていますが、麺やスープがなくなり次第、営業は終了。先日行ったときは2時で終了でした。もちろん、お昼はものすごく混んでいます。きっとPHSを渡されて少し待つことになると思いますが、絶対におすすめです。タクシーでいくだけの価値はある。いや、ホントウにあるから。 「ふるき」の他にも、旭川には名店がたくさんあります。いまや東京に進出している「山頭火」は言うにおよばず、「梅光軒」、「蔵」、「よし乃」などは名店でしょう。でも、僕は一番ここのラーメンが好きです。もちろん、旭川民はみな自分の好きなラーメン屋を1件はもっていて、すぐに宗教論争になっちゃうんだけどね。 是非、もし旭川にいらしたおりには「ふるき」をどうぞ。名店なのに、オヤジさんも信じられないほど腰が低く感じがよくて、絶対おすすめです。 2005/02/12 食い倒す 去年あたりカラダを一時期壊していたせいでしょうか、僕は、それまで思わなかったことを、しみじみと思い始めるようになりました。 それはね、なんか「卑しい人間」だと思われちゃのがイヤなんだけどさ、「オレはこの世の美味いものをすべて食い倒して死んでやる」ってことなんです。 なんかね、「食うこと」に関して、ものすごく執着心が強くなった。きっと一度病気になって「食べられない」ということの苦しみがわかったせいかもしれない。そして「いつ人は病気に倒れるかわからない」ということが身にしみたせいかもしれない。 僕は今29歳。男性の平均寿命は現在77歳。だけど、きっと僕は不健康きわまりない生活をしてきたので、70歳くらいと考えて、残された日々は約15000日。「美味いモノを食い倒す」といっても、哀しいかな、そんなに財力や時間的余裕がないので、3日に1回程度、昼か夜のいずれかに美味いモノを食べたとして、残りは5000日。 オーノー、5000回しかない! その5000日の中で、僕は、この世の美味いものを食い尽くしたい。美味いものといっても、高価なものという意味ではない。グルメになるつもりは毛頭ない。心がこもっているもの食べ物、工夫をこらしたものを、量はそんなになくてもよいから、食べていきたい。 食い倒して死んでやる! 欲望丸出し、小人きわまりないけど、なぜだか固い意志。 2005/02/11 情報を買う 先日、ベネッセコーポレーションのご厚意で、同社が契約しているシンクタンク「Forrester社」とのTV会議に参加させて頂きました。
その日のTV会議のお題は「m-learning」。 いやー、それにしても興味深い。会議で聞いたことで興味深かったことは、ここでは述べられません。が、それ以外で何が興味深いって、こんな風に、世界中にいるコンサルタントから自分の好きなときに「情報」を教えてもらえるっていうのがオモシロイ。ホントウならば、自分たちが実際に見に行ったり、人にあったりしなければわからないことが、テレビ会議で簡単に手に入る。。 もちろん、詳細な情報を得るためには「足を動かさなければダメだ」というのもわかります。それは当然。でも、忙しい毎日を過ごしていると、世界中飛んで回るわけにはいかない。でも、この仕組みなら、「欲しいときに必要な情報」が手に入るわけですね。もちろん、英語の勉強になるし。なんか、いつもやっているビジネス英会話の世界だなーと思ってしまいました。 なるほどね。こういうことがビジネスとして成立するんだ。あまりにも常識のない僕ですが、「情報を買う」ということが少しわかった一日でした。 2005/02/10 トマト 先日、Project Fishの会議が開かれました。今回の会議には、望月君@神戸大学、山口さん@宮崎大学、山内さん@東大、宇治橋さん@NHK、中原が参加しました。2日間にわたるブレインストーミングの結果、ようやく開発コンセプトが決定しました。コンセプトは「ザ・親テク」。それがどういうものであるかは、乞うご期待。今までとは全く異なる学習研究になると思います。長時間にわたり、皆さん、ホントウにお疲れ様でした。ホントウにみんなでアイデアを絞りきるような激しい会議だった。なんか僕は途中で思ったよ、「あっ、また開発の現場にきてしまったな」と、正直、嬉しかったけど。 でも、今日の話題はね、Projectの話じゃなくって、山口さんがおみやげにもってきたトマトの話。山口さんは、いつもおみやげをもってきてくれるのですが(ありがとうございます!)、今回お持ち頂いたプチトマトはホントウに美味しかった。僕は感動した。こんなトマトは久しく食べたことがない。
このプチトマト、宮崎空港で売っているものらしいです。いや、ホントウに「そのまんまのプチトマト」だよ。なんの奇のてらいもない。素材そのものです。 でも、これが美味い。糖度が高く、だからとって、嫌な甘みではなく、すっきりとしている。噛んだあとには、どことなく「土の香り」が広がる。あまりに美味しかったので、何個もたべてしまいました。みんなそうだったと思う。 いやぁ、感動した。手の込んだ和菓子なんかの甘いモノも僕は好きだけれども、こういうおみやげも最高ですね。山口さん、ホントウにありがとうございました。おいしゅうございました。 2005/02/09 大学病院 先日、東京女子医大病院にいった。いくつものランキングとか、患者の評判とかを総合して、僕の病気ならここが一番よいだろう、ということで決めた。
これまで大学病院っていうと、なんだか僕にとっては、イメージが悪かった。 でも、思い切って行ったみたのね。実は、NIMEの事務室の佐藤さんに勧められて。 するとね、これがホントウによかった。まず、すべて受付とかは自動化されてるし、待ち時間もそれほど長くない。看護婦さんも優しかったし、なにより、先生はキチンとこちらのもとめる時間をかけて説明をしてくれた。 「説明してもらえる」っていうのは、僕にとっては、ものすごく重要なんです。僕は一応研究者として「論理的であること」や「理論的なるもの」を愛している。「筋道たった、納得できる説明」が欲しい。説明がつかないもの - そういうものは世の中には多いのはわかってはいるのだけれども - 不条理なものは、なんか気持ちが悪いんですね。 --- ともかく、東京女子医大は、とてもよかったです。実際に、行ってから調子いいしね。これがどの程度一般化できるかはわからない。国立大学とか、地方大学の場合はどうかはわからない。でもね、少なくとも、僕が行った東京女子医大の消化器関係のセクションは、評判通り、すばらしい医療サービスを提供してくれました。 --- まぁ、でも、つくづく思ったのは、医療福祉の分野っていうのは、今、激変しているんだろうな、ということ。効果が高くて、論理的で、かつ患者本位の医療を求めてる人がたくさんいる。人はそのためだったら、インターネットで情報を探し回るし、ある程度のお金ならだす。 「健康」は自分で探しもとめる時代、買う時代に入ってきているのかもしれませんね。 2005/02/08 募集中! 公開シンポジウム 東京大学BEAT講座では、3月5日(土曜日)、MITとイギリスから2名の研究者をお招きして、下記のシンポジウムを開催します。「MITでは、テクノロジーを使ってどのような教育を行っているのか」、「イギリス政府は、モバイルを使って、どのような教育を創出しようとしているのか」について考えたいと思います。 ふるってご参加いただければ幸いです。
2005/02/08 週末の読書 大学における「教育、研究の市場化」に対する2つの著作を読んだ。 ひとつめは、ハーバード大学の元学長「デレク・ボク」が、近年の大学改革についてしるした著作。 この本において、デレク・ボクは、近年の米国大学では、フットボール、研究成果の特許収入、企業との共同研究、遠隔教育事業、などの商業活動が盛んになっており、そのことが大学教育、研究の理念をひずめていないか、と問うている。 2つめは、先の著作とは全く相反するもの。産学連携のトップをいく東大先端研の組織づくり、人事、ルールづくりなど、先端研の経営マネジメントについてまとめたもの。 「今の最先端は、10年間後の最先端ではない」というのが先端研の理念。その理念にあらわれているように、先端研では基本的に研究者の任期は10年とされており、人事の流動性が確保されている。そして、そうした流動性の中から、活発な研究活動がおこなわれている。
先端研がつくりだした制度といえば、たとえば、大学発のTLOであるCASTI、ベンチャー企業の支援を行う先端科学技術エンタープライズ株式会社、大学と社会のリエゾンである先端テクノロジービジネスセンターなどがある。特任教員の制度もここから生まれた。また、ここでは広報活動も非常に重視されていて、東大先端研NAVIというメルマガなども発行している。 --- 2つの著作をあわせよみしつつ、少し考えさせられた週末だった。明快な解は、いまだない。 2005/02/07 スキー 少し前のことになるけれども、日帰りスキーにガーラ湯沢にカミサンと出かけた。 楽なんだよなぁ・・・ほんとうに。東京駅から新幹線で1時間30分、ガーラ湯沢に到着。駅に直結した建物で、スキーや手袋をかり、そのままゲレンデへ。全くの手ぶらで出かけ、スキーを楽しみ帰ってくることができる。帰りは温泉が施設内にあるからね、そこでひとっ風呂あびることができる。 なんかスキーとか聞くとさ、重い荷物をしょって、長時間バスに揺られるっていうイメージがあるけどね。そのツラさが全くないんだね。こりゃ、いい。 また行きたいですね、休みがあれば・・・。結構、最近、週末詰まってるんだよなぁ・・・。 追伸. ゲレンデを滑っていたら、勝手に写真をとってくれるサービスというのがあって、帰り際に立ち寄ったお店で、自分の写真を見つけた。商売上手だね、それにしても。珍しかったので、つい買ってしまった。また浪費してしまった・・・。
2004/02/06 市民がつくる大学 午前中、文部科学省 生涯学習局「ポスト2005に向けた生涯学習の情報化検討委員会」。丸の内へ、それにしても東京行きの電車は混んでるなぁ。 今日の会議は、「富山インターネット市民塾」の代表をつとめる柵さんから、ご自身の活動について話題提供があり、それをもとに議論が進行。
富山インターネット市民塾は、何かを教えたい「市民」が自ら講師となって、オンライン・オフラインの市民向け生涯学習講座を開設することを支援するNPO。教えるのも市民、学ぶのも市民というのが、その特徴である。 オンラインだけで完結する講座は、全体の3割程度。残りの7割は、オンラインとオフラインを組み合わせた学習となる。 柵さんがおっしゃるには、「地域には、モノを人に教えたい人はたくさんいる」だそうだ。そして、「教えることは最高の学習のリソース」であり、講師をつとめる人自らも、自分の得意な分野を学び直す契機になる。 市民塾は、現在89講座を運営し、塾生は5200人にまで成長した。参加する人には、働き盛りの人、特に20歳から40歳が多い。 富山インターネット市民塾と同じような活動を行っている団体は、全国に少しずつ広がっているのだという。
こうした活動については不勉強で、ほとんど知らなかったので、とっても驚いた。知の公開、流通の担い手は、大学だけじゃないのだなぁ、と思った。 2005/02/05 続編 毎日インタラクティブに先日の記事の後編が掲載されました。
2005/02/05 賢さ すべてのモノゴトを自分で把握する必要はない。モノゴトを深く知っている人々をまわりに集めることで、人はより賢くなれる。そして強くなれる。 貧困家庭に生まれ、ボイラー炊き、電信会社のメッセンジャー、鉄道会社の雑用など様々な仕事を経験し、最後にはUSスチールを気づいたのは、アンドルー=カーネギーである。 アメリカの鉄鋼王の墓標には、下記のような言葉が刻まれているのだという。
カーネギーがもし凡庸な人間であったとしたら、人事をとりおこなう際に、自分よりも賢明な人間の採用を避けたかもしれない。こうした事態はよく起こる。かくして、「おのれ」よりも愚鈍なる人物が周辺に集まる。組織は必然愚鈍になっていく。 もし彼がもし並の経営者であったのなら、賢明な人物を引き留めておくことが難しかったかもしれない。おのれよりも賢明な人物は、先を読む。明日なきところに、賢明な人物はとどまらない。 賢明なるものを集め、引きとどめておくことができるのは、ひとつの専門性であり、ほかに類をみない「賢さ」である。 2005/02/04 速報 先日、僕は、教育システム情報学会のシンポジウムで講演を行わせていただいたのですが、その様子が、毎日新聞Interactiveに掲載されました。 話が長いせいで(スミマセン...)、上下2回にわけての掲載になるそうです。もしよろしければ、感想・コメントなどお聞かせください。
僕の拙い講演を、記事にまとめてくださった毎日新聞社の平野さんには、この場を借りて感謝致します。ありがとうございました。 2005/02/04 科学博物館 先日、宇治橋さん@NHK Educational、山内さん@東大、中野さん@ベネッセと一緒に、上野の国立科学博物館を訪れた。 科博には、PDAとICカードを用いた展示ナビゲーションシステムが導入されており、それを実際に体験しつつ、その運営に携わっている三上さんにお話をお聞きするのが目的だった。とてもインスピレーションのわいた時間だった。お忙しい中、僕たちを案内してくれた三上さんに、この場を借りて感謝致します。ありがとうございました。
見学後は、みんなで上野にあるスペイン料理屋(飛び込みで入った)でお食事をした。この店には、長い間輸入が禁止されていたはずの「ハモンイベリコ(スペインの生ハム)」がおいてあって感動した。 料理を食べながら、最近の博物館業界のことなどを話した。あっという間に時間が過ぎた。 ところで、三上さんは、博物館と博物館の情報の伝達(ナレッジの共有)にご興味があるとのことだった。とてもオモシロくチャレンジングな研究テーマであると思った。 彼女は、今、下記のサイトを運営している。博物館にかかわる人々のコミュニティビルディングをめざしている。取材に基づく様々なコンテンツ、そしてメーリングリストなども運営している。
是非、一度ごらんいただければ幸いである。 --- 追伸. 今日は、ウ○チが漏れちゃうほど忙しい・・・嗚呼。 2005/02/03 ミシング・リンク(Missing link) 先日、企業内教育担当者の方々が集まる会合に、パネラーのひとりとして参加した。僕は、「企業の人材育成と教育学研究(大学)のミシングリンク(失われたつながり)をいかに埋めるか」という話題提供を行った。 話題提供後、フロアからの質問や意見に耳を傾けていたら、実は、「企業」にはそれ以外にもたくさんのミシングリンクがあるという話をなさる方がいた。 まず一番見えやすいミシングリンクは、「本社の人事と教育実務担当者のあいだの関係」。この関係は、一般に教育を「依頼するもの」「依頼されるもの」の関係にあり、対称というわけではない、ということを指摘する人がいた。前者はローテーションで交代する職種と見なされているのに対し、後者はスペシャリストとして同じ職種にとどまることが多い。専門性の観点からも非対称な関係にある。 第二のミシングリンクは、学習を受ける社員と教育実務担当者のあいだにある。ある人は、こういう。教育実務担当者には、学習を受ける社員のウォンツや意見を拾い上げるチャネルがかなり限られている。研修終了後のアンケートは存在するが、その回答の不確かさ、いい加減さは、実務担当者なら絶対にわかるはずである。それ以外で、フツウの社員と会話する機会は、極端に限られている。 こういう話を聞いていて、これは真剣に考え(モデル)をあらためなければならないな、と思った。これまで僕は、「企業」と「大学」のミシングリンクを埋めるための様々な仕掛けについて、思い描いていた。このミシングリンクを埋めることが、学習の現場の改善に何らかの寄与をもたらすはずだ、と思っていた。 しかし、話はそう単純ではない。 具体的に言うならば、たとえば大学で生み出された知、インストラクショナルデザインでも、学習科学でもよいが、その重要性だけを主張し、「企業と共同研究をやりましょう」と声高に叫んでいても、話は前に進まないということである。 一口に企業というが、「企業の誰がカウンターパーソンなのか」、具体的にいえば、本社人事なのか、教育実務担当者なのか、その両方なのかで、全く共同研究のあり方は変わってくるし、学問の知見の提供の仕方も変わってくる。 そして、それらの人々と学習者とのあいだに、過去にどのような関係が築かれていたのかを知らなければ、学習者にとってattractiveに見える学習環境を提案することはできない。しかし、企業の外から学習者の実際の学習、生活の様子は、なかなかうかがい知れない。そこは、内部の人間、多くは教育実務担当者に行ってもらうほかはないのだが、そこにミシングリンクがあるとすれば、これは深刻な問題である。 要するに、研究計画の最初から、3つのミシングリンクを埋める努力(或いは埋めようとする計画)を立てなければダメなのだということになる。 企業との学習研究は、「大学で生まれたルールや法則を現場に適用する」という意味での技術的合理性に基づいたモデルでは、断じてない。それほど話が単純ではない。佐藤学氏の言葉に「(大学の先生が学問の成果を一方向的にに教える)講演で教育現場は変わらない」というのがあるが、至極名言に思える。 やはり、企業の場合であっても、研究者は、企業の様々な人々と対話し、様々な制約の中で、ミシングリンクを埋める努力をしつつ、ベターな解法を探さなければならない。それは、共同研究自体が、対話的で反省的で、循環的な実践でなければならないことを意味している。 これは言うのは簡単だが、ホントウに難しいことである。
そういうことを言われると、少し哀しくなる。しかし、経済が好況の時には、「大学で学んだことなんて何も期待しない。白紙のままで人を送り出してくれればそれでよい」と言っていたのは、どこの誰だったのか、とつい思ってしまい、憤りも感じる。しかし、まぁ、そういう意見も少なからずあることは間違いない。 --- とまぁ、机上で考えていると、いろいろ気が滅入ってくるのだが、まぁ、いたずらに深刻になっても仕方がない。僕の好きな相田みつをの詩に「考えてばかりいると、日が暮れちゃうよ」というのがあるが、まさにその心境である。 「困難は分割せよ」・・・近代という時代、そして自我の独立性を声高に主張したデカルトは、こういう。まずは1歩をどこにおくか。そして、具体的にどこから手を動かすか。 そして人生は続く。 2005/02/02 急告! 公開研究会「BEAT成果報告会」
2005/02/02 米 先日実家に行ったときに、親から教えてもらった秘伝!?の「お米炊きツール」を、我が家でも購入し、早速使ってみた。ツールのナマエは、「もち黒米」という。
「もち黒米」は文字通り「黒い米」である。その使い方は簡単。ご飯をたくときに、それを少しだけ混ぜるだけ。そうすると、炊きあがりは、右の写真のようになる。少し色の薄い赤飯...貧乏赤飯みたいかな。 赤飯といっても、味は全くついていない。フツーのごはんである。ただ、その炊きあがりは「ふっくら」としており、とても美味しい。これを使う前のごはんと比べると、とても同じごはんとは思えない...だからといって、別にアヤシイ薬品とかが入っているわけじゃないからご安心を。うーむ、不思議だ。恐るべし、黒米。 「もち黒米」はスーパーなどで売っている。先日、カミサンがフツーのスーパーで見つけてきた。 2005/02/01 急告! パパ・ママのお仕事ワークショップ 東京大学情報学環で、「パパ・ママのお仕事紙芝居をつくろうワークショップ」というイベントが開催されます。3月12日です。このワークショップは、ふだん話すことの少ない「親の仕事」について、お子さんと話し合ういい機会になると思われます。ワークショップのオーガナイザーは、荒木さん@東京大学大学院 山内研究室M1です。
ふるってご参加ください。 2005/02/01 急告! メディアリテラシーに関するシンポジウム 東京大学情報学環で、メディアリテラシーに関するシンポジウム、研究会が開催されます。ふるって、ご参加ください。
2005/02/01 ネットワーク教材は売れない!? 先日、某社のAさんが、研究室を訪れてくださった。現在、Aさんは、子ども向けのデジタル教材(CD-ROM教材)を制作なさっている方である。 Aさんとはいろいろな話をしたが、特に興味をもったのは、「インターネット教材は売れない」という話であった。 実は、Aさんの教材は、かつてインターネットを使って提供される教育サービスだった。教材開発には1学年1億数千万の費用をかけた。それを年間利用料5万円弱で、ユーザーに提供していた。 しかし、インターネットを用いた場合は、顧客獲得に苦労した。投資が回収できず、現在は、訪問販売のかたちで、同じ教材を販売することにした。価格設定は数十万とした。するとどうだろう、今までとは明らかに違う勢いで、教材が売れ始めた!というのだ。 断っておくが、提供されている教材は、ほとんど同じものである。同じものであるにもかかわらず、売れ行きは違う。それも単価は明らかに高いのにもかかわらずである。 確かにAさんが、インターネットを使った最初のサービスをはじめたのは、ブロードバンド以前のことだったら、ネットワーク環境が要因であると結論づけることもできるかもしれない。 しかし、現在、Aさんの会社は某社と契約し、某社のインフラでネットワークでの教材提供も行っている。しかし、こちらの方は、あまり売れ行きは芳しくない。だから、ネットワーク環境の貧弱さが主因というわけでは、どうもなさそうである。 この話を聞いて思ったのは、もしかすると、ユーザーの中には「教材は手に取り(tangible)、本棚にならべておけるもの」という強固な概念があるのかもしれない、ということである。このユーザーの素朴概念に従わなければ、教材は売れないのかもれないという大胆な仮説をたててしまった。 そういえば、先日、某通信会社最大手のBさんと話したときも、彼はこんなことを言っていた。
うーん・・・ |
NAKAHARA,Jun
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