モンモンとしている
そのことを考えると、どうもよくわからなくなってくる。というか、何だか腑に落ちずに、そうはいっても、全く解決がつかないで、モンモンとしてしまうことが、最近の僕にはある。
というのは、
社会的構成主義的な学習環境
状況論的な学習環境
という「モノの言い方」についてである。
「社会的構成主義的な学習環境」「状況論的な学習環境」という単語は、マニアックな用語でありながら、結構、いろんな場所で使われている。
eラーニング関連のセミナーなどで、企業の方が「これからは社会的構成主義的な学習環境の時代だ!、だからグループ学習をしよう!」と喋っているのを聞いたこともある。
論文査読している間にも、何度か、研究者がこのような用語を使って、自分の開発した教育システムについて論じていたことを見たことがある。
ふーむ、そうなのか。○○の時代なんだねー、と思いつつ、しかし、よーく考えてみると、これがどうもストンと落ちない。
社会的構成主義とは、「事物が人々の間の相互作用によって成立している」という認識論である。誤解を恐れずにいうならば、その理論は、「学習環境であろうと何であろうが、世界の成り立ちの根元は、人々の相互作用にある」と宣言している理論である。
しかし、「社会的構成主義的な学習環境」という言い方は、この理論の眼目を否定する。
なぜなら、「これからは社会的構成主義的な学習環境の時代だ!」を想定するということは、「非社会的構成主義的な学習環境」の存在を認めてしまうことだからである。社会的構成主義は、「非社会的構成主義的なるもの」など、そもそも存在しないと言っているのにもかかわらず。
そして、そういう論文や講演の多くは、「社会的構成主義的な学習環境=グループ学習が重要!」という風に、社会的構成主義が本来主張したかったこととは、全く異なる風に、理論を矮小化してしまう。つまり、哲学的認識論を「方法論」に転化してしまうのである。
「状況論的な学習環境」もまた然りである。
状況論は、「人間の知的有能さは、人間の外界に存在する道具や他者との協同を通して達成されること」を主張する理論である。状況論は、いろいろな理論を内包する理論群ではあるけれど、最大公約数をとればそういうことになるだろう。
しかし、この状況論の眼目が、なぜかは知らないが、「学びのために道具を活用することは重要!」ということになってしまうし、「やっぱり他者との交流は重要!」ということになってしまう。
ここのあたりは、ストンと落ちない。
だけど、こうした物言いに不満を述べつつも、僕は、そういう理論的不純さを生み出してしまう根元的理由も、同時に理解しているつもりである
ある意味で、学習の方法を研究するものは、認識論や理論を下敷きに(根拠にして)、学習の場を組み立てるという、もっともらしい言説の転換をいつも行わざるをえない、という宿命にあるからである。かくいう僕も、そうした言説の転換をこれまで行って、生きてきたし、これからもせざるを得ないときが1度や2度ではないと思う。
しかし、それ故に生まれる「気持ち悪さ」みたいなものを抱えず、なんの矛盾も反省も感じず、「認識論」を「方法論」に転化することは、やはり避けたいとは思う。しかし、避けたいとは思いつつ、「学習の方法論」について語らないわけにもいかず、やはり今日もモンモンとすることになる
この問題は、かつて認知科学の雑誌とかでも論じられたことがあるが、まだ僕の中では、解決はついていない。
今日もモンモンとつぶやいて生きるしかない。
投稿者 jun : 2005年4月27日 20:50
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