The Long & Winding Road - 2003/06


sunset at promised place


2003/06/30 マズローがきかない

 ちょっと前の話になるけれど、ある民間企業の仕事で、京都大学の溝上さん、神戸大学大学院の山田さん、山内さんらとブレインストーミング的な会議をした。その際、青年心理学を専攻する溝上さんから、その場でオモシロイ話をきいた。

 溝上さん曰く、最近の若者は、「マズローがきかない」のだという。マズローとは、いわずもがな、「欲求の五段階説」をとなえたオジサンである。

 マズローによれば、人間の欲求には「生理的欲求」「安全の欲求」「所属・愛情の欲求」「承認・尊敬の欲求」「自己実現の欲求」があって、順に「高次な欲求」とされている。

 「マズローがきかない」事態とは、要するに、昨今のワカモノたちの欲求は、このモデルではどうも説明がつかなくなってきているということ。溝上さんが言うには、「一番高次な欲求とされている自己実現の欲求が肥大化し、一番低次なものに位置づけてもいいくらいになってきている」のだという。

 なるほど。最近のワカモノは「所属への欲求」とか、「承認への欲求」とかよりも、まずは「自己実現!、自分探し、自分らしさ」を重視し、なによりそれを基底におきたがるってことだろうか。

 自己実現は確かに重要な欲求だが、どうも、それだけが過剰に追い求められるとき、つまりは「肥大化した自己実現の欲求」、あるいは「自己実現を当然視する風潮」には、どこか危険性を感じてしまうのだが、皆さんはいかがだろうか。


2003/06/29 ED-MEDIA 2003

 ハワイ、ホノルルで開催されたED-MEDIA2003に参加した。今回のED-MEDIA、僕は、結構多くのセッションに参加したと思うんだけど、その中で、オモシロかった発表をここで紹介。

-----

■e-learningの開発チームに関する研究

 「eラーニングの開発チームをどのようにつくるか」ということに関する研究である。研究というよりは報告に近い気もするけれども、数年前までは、「あるinovationを支える組織」に関する話は、ぜんぜん学会でも発表されていなかったので、これは新しい潮流なんだろう。

 その発表によると、e-learningが失敗する所以は、「No organizational structure」「Vague pedagogical model」「quality control」「tight schedule」などにあり、最大のガンは、組織論の不在なんだという。

 ほんでもって、その発表ではe-learningを実行する組織のroleとresponsiblityを定義するべきだっちゅー話をしていた。たとえば、そのRoleには、以下のようなものがあるという。

・Instructional designer
・マルチメディアデヴェロッパー(動画撮影・スチル撮影など)
・Webプログラマー
・エディター
・著作権処理
・プロダクションマネージャー

  専門性をもった人々が協働することで、よい教材を生み出していけることになり、それには、最低でも以上のような役割を担う人々がいるんでないの?と言いたいんだろう。

 で、そうした人々が開発を行う際の工程としては、下記のようになるという。

1.インストラクショナルデザイナーがコンテンツエキスパートと話し合って、モジュール仕様を決定
2.著作権処理係による権利処理
3.インストラクショナルデザイナーによるモジュールの仕様再定義
4.実際の開発
  - マルチメディアデヴェロッパーによる素材の開発
  - Webプログラマー 
  - エディター
5.プロジェクトマネージャによる工程管理とクオリティアシュアランス

 うーむ、リッチだ、リッチすぎる。「手弁当」か「丸投げ」が横行する日本のe-learningでは、こういう役割分業がなかなか生まれていない。この点は、学ぶべきことは多いかもしれない。

■Open Knowledge Initiative

 OKI(Open Knowledge Initiative)は、MITの主導する学習システムの標準化プロジェクト。要するに、異なった機能をもつ学習関係のシステム(教育システム)たちを、どのように接続させるか、アプリケーション同士がどのようにデータをやりとりを行うか、ということを、いくつかのアメリカの大学の連携のもと、MITが主導して考えていきたいらしい。

 MIT OKI
 http://web.mit.edu/oki/

 MIT OCWとMIT OKI 特集記事
 http://www.cren.net/know/techtalk/events/mit.html

■orchestrating collaborative learning

 この発表は「共同学習をOrchestratingする」っていうタイトルがおもしろかった。

 要するに言いたいことは、「効率的な共同学習を誘発するためには、ソフトウェアのデザイン、学習活動のモデル、学習者に対する指示なんかが一貫してなアカンぞ、ということ。そういった様々なエレメントをオーケストレーションすることが重要なのだ」ということです。

 「オーケストレーション」という概念は、状況的認知研究では、ずいぶん前から知られているし、その主張も、結構アタリマエではあるのですが、その主張を「開発 - 評価」の枠組みにそって、根拠を示しながら行っている点で、よい研究だな、と思いました。

■Teaching onlineをオンラインで教える

 このたぐいの発表は大流行だった。要するに「オンライン教授学」をオンラインで教えるにはどうしたらよいのだろうか、ということである。ところによっては「e-education」って呼ばれているみたい。下記のニュージーランドの大学では、「e-education」を行いたい人向けのワークショップが行われている。

 WICED
 http://www.wiced.biz/

 この手のいくつかのセッションにでてみたけど、結局、「バーチャル先生」「バーチャル子ども」の役割を相互に演じて、とにかく仮想のサイトにコンテンツや掲示板をつくって、やってみるしかない、オンラインで教えてみるしかない、という話が多かった。

■Teaching をオンラインで教える

 上記に付随して、Teachingをオンラインで教えるっていう発表もたーくさんあった。こちらの方は、さっきのが「オンライン教授学」なら、こっちの方は「オンラインで教師教育」っていう感じかな。

 LTTS
 http://ltts.org/

 たとえば、かなり気に入ったのは、上記のサイト。ジョージア大学のスタッフが、運営・研究に携わっているらしい。このサイトでは、有料で教師に研修をしてるんだって。たとえば「科学におけるInquiry learning」とか、そういうカリキュラムがあるらしい。発表者は、D1の学生さんだったが、とってもよい研究だと思った。

-----

 今回の学会で、特に印象深かった発表は、こんなところだろうか。ED-MEDIAは「教育とテクノロジー」が発表の要旨に含まれていれば、「何でもアリ」の懐の深い学会なので、発表は玉石混淆だけれども、「最近の研究動向」を見るにはいいなーと思う。また日本人の研究者の方々もたくさんいらっしゃるので、こういう機会に、じっくり時間をとって話ができるのはいいなーと思います。今回も特に堀田先生@静岡大学、黒上先生@関西大学には、とってもお世話になりました。本当にありがとうございました。

 来年のED-MEDIAは、スイス。
  今から、楽しみだ。


2003/06/25 ソフトウェア開発

 先日、宮川先生@MITからオモシロイお話をきいた。

 ソフトウェア開発がいかにリスクマネジメントを必要とするシロモノか、という話である。宮川先生によれば、ソフトウェア開発のある統計では、下記のように言われているのだという。

・ソースコードの行数が100万を超えるソフトウェア開発の65%は、ソフトウェアの完成をまたずして失敗する
・ソースコードの行数が50万を超えるソフトウェア開発の50%は、ソフトウェアの完成をまたずして失敗する
・ソースコードの行数が10万を超えるソフトウェア開発の25%は、ソフトウェアの完成をまたずして失敗する

 加えて、ソフトウェア開発案件の3分の2は予算超過か、締め切りを守ることができないのだという。

 僕の数少ない経験をもってしても、たぶん、これらの指摘はものすごく現実味のあるものだと思う。とにかく、ソフトウェア開発っていうのは、工程管理や役割分業が難しく、油断すると、すぐにコケる。徹底したリスクマネジメントを必要とする。

 最近は、複数のプログラマでコードを共有しながらコーディングする開発技法などが提案されているけど、それにしたって、その方法をとにかく踏襲すればよい開発ができるかっていうと、決してそんなことはない。

 とにかく、開発メンバーのコミュニケーションサーキットをよくして、スケジュールと工程管理を戦略的に行い、常にモティベーションをあげ続け、リーダーシップを発揮すべきときには、ガツンといく。やること満載である。

 こういうのを、痛い思いをして経験しているから、僕、「ソフトウェア開発」だけは、半端な覚悟で安請け合いしたくない。また、自分が責任をもてないものに関しては、関与したくない。

 「丸投げどん」とか「気合いとやる気でなんでも解決!」で開発をやりたがる人多いけれども、それは日の目をみないソフトウェアの亡霊を、新たに作り出すだけだから、絶対におすすめしない。


2003/06/21 恩師

 ふとしたことがきっかけで、高校時代のことを思い出し、何の気なしにググってみたら、特にお世話になった先生のうち2人が、予備校の先生になっているのを発見してしまいました。

 志水顕先生
 http://www.satsuyobi.ac.jp/introduction_message/science.html

  志水先生は高校2年生のときの僕の担任です。

 生物が専門で、本当にオモシロイ、それでいて絶対に高校生だからといって手抜きしない授業をしてくださいました。特に遺伝とか細胞の授業とかは、本当にわかりやすかったなー。それって生物でも難しい分野のひとつなんだけど、時には英語の文献を配って、最先端を教えてくれたんです、そういう意味で容赦がなかった。

 そう、彼の授業で一番覚えているのは、利根川進先生のモノクローナル抗体を授業で教えてくれたことです。

 利根川進先生
 http://web.mit.edu/biology/www/facultyareas/facresearch/tonegawa.shtml

 ざっとだったけどね、でもさ、教科書にはそんなこと書いてないからね。「おいおい、高校生物の授業で、ノーベル賞の研究なんか教えてもいいのかい」とびっくりしたことを覚えています。

 担任としての志水先生は、時間にはうるさかったことを覚えています。今から考えれば、若気の至りというヤツですが、僕は、当時「遅刻魔」「中抜け小僧(休み時間にフラフラと学校からいなくなってしまう)」だったので、彼にはずいぶん怒られました、シボラレました。

 一番覚えているのは、休み時間に「ヌマ」と喫茶店に潜行してさぼっていたら、見事にとっつかまってお縄になったことです・・・トホホ。

 ちなみに、僕、大学入学で、東京にでるきっかけになったのは、志水先生が勧めてくれたからです。

 「おまえさー、このままでも何とかなるけど、小さくまとまってもいいの?、どうせだったら、東京めざせよ」

 と言われた。「ぬぁに、小さくまとまるだと!」と「カチン」「コチン」とアタマにきて、それ以来、猛勉強しました。志水先生は、そういう僕の性格を彼は読んでいたのかもしれません。

 二人目は、伊藤先生。この人も容赦のない先生でした。

 伊藤美徳先生
 http://www.yozemi.ac.jp/les/koshi/sapporo.html#
 http://www.yozemi.ac.jp/books/kokugo/ito1.html

 彼は大阪下町生まれで、ほとんど、「その筋の人」のような、ものすごく迫力のある古典 / 漢文の授業をしてくれました。美徳は、「よしのり」と読むのですが、ビトク先生と呼ばれていました。

 ちょっとでも寝ていると、チョークは飛ぶわ、○られるわ、まー、今から考えてみれば、ものすごかった。でも、それだけ彼は授業に命をかけていることがビシビシと伝わってきた。彼は、よくお手製プリントをつくって配っていたんだけど、ほとんど市販の参考書のクオリティでした。ものすごく手がこんでいて、それにも命かけてたんでしょうね。

 そういうの、いくらアホでもわかります。先生が本気で僕らに向かおうとしている、そんな姿は、マトモな人間だったら、絶対にわかると思うんです。だから、みんな、いくら怒鳴られても、チョークとばされても、文句は言わなかった。いや、チョークがあたったときは、「マジか?」と逆ギレしていたけれども、それも長くは続かない。「ビトクに言われたら、しゃーないな」と思い始めるのです。で、必死で勉強したことを覚えています。

 彼の授業で一番覚えているのは、何の漢文だったかな、ある漢文のテクストにさしかかったときに、彼、なぜか歌い始めたんです。なんだかワケありな声でね。きっと、その文には、何か思い入れがあったんでしょうね、詳しいことはあまり語りませんでしたが、なんかあるんだろうな、とはみんな思っていたんじゃないかな、と思います。

 でも、そのときに、僕は漢文っていうのは、歌う対象、つまり人間の感情がつまったテクストなんだ、とはじめて思った。それまで漢文っていうと、受験問題としか思わなかったからね、それはものすごい衝撃でした。「おいおい、受験問題を歌うなよ」とびびったね。

 ここに紹介しなかった恩師もたくさんいるんですが、インターネットで見つけられたのは、この2人だけだったので、今日はこのくらいにします。それにしても、考えてみるとさ、僕は「型破りな容赦のない先生」が好きなんだな、と思います。

 今の僕があるのは、彼らのおかげだと、心から思います。感謝しています。


2003/06/19 青木さん

 今日の夕方、長い間、メディア教育開発センターの事務補佐員として勤務なさっていた青木さんの送別会がある。青木さんは、メディア教育開発センターが、その昔、「放送教育開発センター」とよばれていた時代から、ここに勤務していた。

 彼女の在職期間は、10年以上になるのだろうか。とにかく、メディア教育開発センターのことをもっとも知り抜いている人の一人であった。

 「どこに誰がいて、どういうことをしてくれるか」「こういうときにはどんな書類を提出すべきか」ということ、すべて青木さんに聞けば丁寧に教えてくれた。青木さんに相談すれば、ちょっと困難なことでも、様々な方法で、いろいろな手配をしてくれた。郵便物の受け渡し、書籍・物品の発注、電話の応対といった細かいことまで、なるべく労力をかけないですむように、配慮して手続きを進めてくださった。

 着任したての頃から、今日の今日まで、僕は、青木さんにお世話になりっぱなしであった。青木さんは僕の母親よりも数歳年上であろうが、彼女にしてみれば、なんて頼りのない、世話のかかるスタッフであったろうと思う。

 本当にありがとうございました。そして、長い間、ご苦労様でした。

 来月頭には、山梨県八ヶ岳にある別荘にご主人と移り住まれるとのことですが、くれぐれもお体には気をつけてください。

 八ヶ岳山麓で過ごされる第二の人生、幸多きことを祈りつつ。


2003/06/18 NPO

 先日読んだ本に、「NPOに対する日本人とアメリカ人のとらえ方の違い」に関する事が書いてあった。

 その本によると、「NPOは社会貢献なんだから収益をあげたらいけない、報酬をもらってはいけない」と考えがちな日本人に対して、アメリカ人はそう考えない。彼らは「NPOは社会貢献活動を収益のもとに行うべきである。社会貢献活動は貴重な活動であるが故に、それにみあった報酬をもらうべきである」と考えるらしい。

 なるほど、そいつは知らなかった。考えてみれば、先日、ドイツにいったときも、ドイツの情報教育のNPOの人がそんなことをいっていたなー。そのときは意味がわからなかったけど、なるほど、そういうことだったか。

 でも、考えてみると、このような日本人のメンタリティは、何もNPOだけに限ったことではない。ボランティアだって、ある時期はそう言われていたことは明らかだ。「公共領域」および「公共領域を維持する仕組み」に対するパースペクティブが両国民で異なっているせいなのだろうか?

 いずれにしても、「行政」「民間」という2つのエレメントだけで、社会の様々な問題を解決していくのは、どうも無理があるみたいで、今後、NPOあるいは、NPO的活動を行っていく組織が担っていく役割は拡大していくだろう。

 どう思う?


2003/06/17 街は舞台だ!

 もう1週間以上すぎちゃったんだなー・・・はやいなー。

 実は、前の前の週末、僕とカミサンは、金曜日に仕事を終えて、羽田で待ち合わせ、ANAの最終便にのって札幌に行きました。YOSAKOIソーラン祭りがあったのね、札幌で。それを見に行ったのです。

 YOSAKOIソーランについてご存じない方は以下のWebなんかを見てください。ビデオじゃちょっとあの踊りの迫力はわかんないかもしれないけど、何をやっているかはおわかりいただけると思います。要するに、ソーラン節を主題にしたストリートダンスです。

 YOSAKOI ソーラン 2002年ビデオ
 http://www.yosanet.com/yosakoi/video/2002.html

 YOSAKOI ソーラン
 http://www.yosanet.com/yosakoi/index.html

 YOSAKOI ソーランのルールは2つ。

 1) 音楽にソーラン節の1節をいれること
 2) 鳴子を手に持つこと

 大まかにいって、この2つしか決まりはありません。このルールを最低限守り、音楽、衣装、演出を自分たちで決めて、チームで舞う。それがYOSAKOIソーランなんです。

 これ、生で見ると、すごいんですね。衣装もすごいし、音楽や踊りもチームによってよく工夫されている。踊りのうまい下手はあるけれど、どれも、みていて、とっても愉快、爽快です。

 今年は4万4千人の人々が舞いにくるお祭りとなっています。参加者、下はきっと4歳とか5歳だよね、上は70歳近い人もいるんじゃないかな。観客は、数十万?くらい、いや、もっといるかもしれないね。いずれにせよ、この時期の札幌は、大通りもテレビもYOSAKOIソーラン一色になります。

 じゃあ、この祭り、よほど歴史が古いのか、と思うんだけど、そうじゃないんだね。もともとは10年前くらいに長谷川岳さんという北大の経済学部に通っていた学生さんが発案して、開催されたものです。

 彼は高知の「よさこい」をヒントに、そういう祭りを札幌でもやりたい、と思った。彼の情熱に共感した札幌圏の学生たちが企画して、この祭りをゼロからつくりました。

 当然ですが、学生が主体ですから、実現に向けて多数の困難があった。大通りの道路通行許可、企業の協賛金厚め、知事の支援、商業主義との批判・・・数えつくせないほどの苦労をして、いろんな人々の協力のもと、今の、祭りの「かたち」をつくりあげた。

 それから10年・・・時がたつにしたがって、それを運営する主体にも、経営の方法も変わっていきました。その様子は、下記の本でよくわかると思いますので、是非、読んでみてください。NPOの経営Tipsとしても読める本だと思います。

坪井善明・長谷川岳(2002)YOSAKOIソーラン祭り - 街づくりNPOの経営学. 岩波アクティブ新書, 東京

 長谷川さんをはじめとしたYOSAKOIソーランの「作り手」の話は、北海道では有名な話なので、ある程度知っていたんだけど、この本、あらためて読んでみて、そのプロセスがよくわかりました。

 なるほど、彼らはこういうことを考えながら、こんな工夫をしながら、祭りのディテールをつくりあげていったのか、ふむふむ、という感じで一気に読み進めることができます。

 こういう話を知って、YOSAKOIソーランを見に行くと、また、より楽しめると思います。

 街は舞台だ! 日本は変わる!



2003/06/16 歯ブラシとひげそり

 僕以外に人間にとって、本当にどうでもいいことなんだが、先日、「清水の舞台」から飛び降りる覚悟で、ふたつの革新的なソリューションを、我が家に導入しました。

 1つめ!
 なんと、歯ブラシを超音波歯ブラシにしました。

 超音波歯ブラシ ULTIMA
 http://www.t-tic.co.jp/products/ultima/index.html

 要するに、この歯ブラシからは超音波がでていて、その超音波が、ふつうの歯ブラシ(庶民の歯ブラシ)を使ったブラッシングではとれない、歯石とか、歯のよごれ、舌のよごれをドドーン、ドドーン、バコーンと、取り除いてしまうのです。ドドーン、ドドーン、バコーンとさ。

 19.800円(税別)と少し高いのですが、早速うれしいことあったね。

 使い始めて1週間くらいたってからさ、いつも行っている歯医者さんで診療中に、「中原さん、全く歯石とか舌苔とかないですね」といわれました。

 フフフ・・・効果絶大。歯は一生ものだしね、ROI高いぞ。おすすめします。

 革新的なソリューション2つめ!
 いつも使っているひげそりを、いわゆる「T字」から、「電動」に変えました。ブラウンというやつよ。

 ひとつめのソリューションからすると、これは、たいしたことないことに思えるかもしれないけど、僕にとっては革新的なのです。

 というのは、なぜ不器用な僕が今まで、T字かみそりを、たまに血だらけになりながら使っていたかってことなんだけどね。これには、深い理由ががあるのです。電動ひげそりをさわったときの悲しい物語、トラウマが。

 たぶん小学生の頃だったと思うんだけど、はじめて僕がさわった電動ひげそりは、「母方のじいちゃんの形見」だったわけさ。

 で、ある日、なんの気なしに、「じいちゃんの形見」だから、それを使ってみようと思ったときに、僕、間違って、T字でひげをそるときと同じように、石けんでシャワシャワにして、電動かみそりを使ったんだよね。

 結果は感電です、感電!
 もう少しで死にかけた。

 「じいちゃんの形見」だったせいもあるんだけど、あっ、これは「電動ひげそり」は危ないぞ、と。「あの世に引かれてしまってはかなわない。僕のひげは一生T字に捧げるわ」と思いました。それで、T字しか使えなくなったのです。まぁ、今から考えたら、単なるアホなんだけど。

 でもさー、なんか最近、生活が不規則なせいか、どうもアゴのあたりの皮膚が荒れていて、たまにT字でひげをそるとね、血だらけになって、朝から痛いことこの上なかったのです。

 で、思い切って「電動」に変えることにしたんです。

 最初のうちは、いつビリビリくるか、ドキドキしながら使っていました。朝っぱらから、ドキドキよ。

「じいちゃんには本当にかわいがってもらったけど、まだ僕にはやらなければならないこと、置いていけないものが、たくさんあるからね、まだ、そっちの世界には行かないからね」

 と祈りながら、電動ひげそりを使ってた。そんな人、なかなかいないと思うけど。

 でも、最近、ようやくなれてきました、めでたい、めでたい。


2003/06/15 海商

 海沿いの街だったらどこでもそうだと思うんだけど、そういうところって、地元の人しかいかない「海の幸」の店ってあると思うんです。

 先日、帰郷した際に、小樽の銭函っていうところにある、そういう店にクルマで行きました。ゼニバコの職業訓練校のすぐ近くね。「海商」っていうお店で、バラックみたいな建物にあるんだけどね、開店は週末だけ。

 ていうか、安い、安い。

 カニなんか、身がぎっしりとつまったケガニが1匹で1500円。最近僕が中毒になりかけているイクラは、タッパーみたいな容器にガッツリとはいって980円。キンキも980円。大トロ500g、ウニ、サーモン、マダイをすべてつけて4000円という感じでね。値段もさることながら、信じられない新鮮だ。

 なんだか嬉しいんだけど、ハラたってくるよなー。こういう店が身近にはないからね。東京にもしあったとしても、気軽にはいけない値段になっちゃうだろうし。

 でも、ちょっと調べてみたら、Webサイトがありました。ここで注文もできるみたい。よい時代になったねー。

 シーフーズ海商
 http://www.umisyo.co.jp/


2003/06/13 デザイナーも困っちゃう!

 仕事柄、デザイナーの方々にお会いすること、僕は多いです。

 ちょっと前のことになるんだけど、いつもお世話になっている八重樫さん、吉田さんと雑談していたら、「デザインやっていて、一番困っちゃう瞬間」の話になりました。

 どういう瞬間かっていうと、たとえばこんなクライアントとのやりとり。

デザイナー「このデザイン、どうですかね?」
  
クライアント「うーん、もっとガツンと欲しいね」
  
デザイナー「ガツンですか・・・」
  
クライアント「そうそう、君、若いんだからさ、なんていうかな、ここなんか、もっとドーンと、ガーンとした色でパンチきかせてよ。」
  
デザイナー「ドーン、ガーンですか・・・」
  
クライアント「そうそう。なんていうかな、ここもバーンっていう感じで」

 意外に多いんだって、こういう人。

 まさか冗談だろと思って、夜、うちのカミサンにその話をしたら、「わたしもセットとか衣装を頼むとき、そんな感じだよ」と言っていた。

 ガツンとね、ガツンといってよ、若いんだから。


2003/06/12 バーベキュー入試

 ハワード=ガードナーといえば、泣く子も黙る心理学者です。ハーバード大学で教鞭をとるかたわら、Multiple intelligence(多元的知能)の理論をうちたてた。彼の仕事のひとつであるプロジェクトゼロもすごく有名です。

 縁あって、一昨年、このガードナーの著作を翻訳する機会に恵まれました。僕が担当したのは、第10章「文脈の中の評価」というところです。

 この章の要旨を簡単にいうと、こんな感じになるでしょうか。

 今、アメリカでは、人間の能力を数値化することのできる標準テストが大流行だ。でも、そうしたテストで人間の能力をはかれると思ったら大間違い。人間のパフォーマンスは、それが発揮される文脈と独立ではない。人が有能であるか、そうでないかは文脈とは無関係ではないのだ。だから、人を評価する際には、評価しようと思っている能力が発現する文脈の中で行われなければならない。

 で、その例にだされているのが、こんな例なんだよね。

 対人関係の知能は、店員と客とのいさかいをどのように解消できるか、どうかで見ることができる。また、調整が難しい委員会で、どのように振る舞うかを見ることによって、把握可能である。

 つまり、対人関係の調整能力を評価するためには、それが必要になってくる場所で行えよ、と言っている。

 で、先日、ある研究会で、このことを紹介したら、「中原さん、バーベキュー入試って知ってる?」っていう話になったんです。

 バーベキュー入試って何かっていうと、初対面の受験生を何人かでバーベキューさせるんだって、そこで、コミュニケーション能力を見る、っていう入試らしい、詳しいことはしらんけど。これ、大学入試として実際に行われているとのことです。

 いやー、すごい、こりゃ、戦闘不能です。

 実際に行われているとはねー。ガードナーは「文脈の中の評価」は簡単にできる、やればできるのだ!と言っているのだけれども、まさか本当にあるとは思わなかった。

 それにしても、入試で緊張して、肉の味わからんくなるかもね。


2003/06/11 近況

 ここ1週間、非常にあわただしく過ごした。

 まず、大阪大学に数日滞在し、ここ数年間書き続けていたブツを、何とかかんとか仕上げることができた。前迫先生、菅井先生には、お忙しい中、大変お世話になりました、ありがとうございました。ちなみに、久しぶりに徹夜×2日、よい子はマネしちゃいけない。

 提出後、前迫先生、松河君、重田君、久保川君らと、梅田のハービスにある焼鳥屋、ウェスティンホテルのバーで飲んだ。バーで飲んだマイタイが異様に濃かったのかな・・・酔いが回るのが非常に早かった。

 週末、東京に戻り、exCampus本のカバーデザインの会議に参加。吉田さんのおかげで、ステキなブックカバーになりそうだ。

 その後、半分死にかけ人形状態でLOT研究会に参加。今回の文献購読は、ポートフォリオに関する論文2本と、Classroom lessonの中に入っているCSILEの論文。後者は、やはり今も新鮮な論文だな、と思った。

 ポートフォリオに関しては、あんまりよく知らないんだけど、森田正康君が発表してくれている途中、「ポートフォリオ」でググッていたら、「ポートフォリオのつくりかた」を動画学べるというeラーニングサイトを発見してしまった。疲れていたせいなのか、このあたりで戦闘能力がゼロになった。

 9日、NIMEにて研修講師。「IT時代の大学経営戦略を考える」というのが研修の大きなテーマだった。

 「オンライン・コースの手法と戦略」研修
 http://www.nime.ac.jp/KENSYU/kensyu_h15/005/main.html

 研修には80名程度の方が参加してくれた。東京大学の山内さんにはお忙しい中、研修講師を引き受けていただいた。本当にありがとうございました。

 ちなみに、今回の集客は、NIMEの研修事業始まって以来だったらしい。この研修、あと4回あるので、是非、いらっしゃってください。ただいま、受付中です。

 10日、マサチューセッツ工科大学の宮川先生とパワーランチ。僕の研究のこと、宮川先生が今取り組んでいらっしゃる「Visualizing Culture」の話をお聞きした。

 その後、来客3件+会議2件。夕方、東京大学の酒井君が研究室にきて、彼の修論の話を聞いた。1)参加する人、2)つくる人、3)つくるもののより詳細な仕様、4)スケジュールを早急に明らかにして、あとは、ガシガシつくることだと思った。

 11日、望月君とパワーランチ。共同研究について少し話した。その後、概算要求の会議。終わり次第、都内に向かって会議。

 そして人生は続く。


2003/06/02 不幸な学習者

 ケツの穴の小さい人間かと思われるかも知れないが、僕自身が、教育関係のシステム開発、コンテンツ開発のプロジェクトに携わるとき、4つのことにいつも気をつける。

 1) constraint
 2) goal conconsciousness
 3) controlablity & Start small
 4) scheduled & phased implementation

 まずは、1)のconstraint(制約)から。

 モノゴトには制約がある。まずは絶対に動かせない制約を確実に意識しなければならないと思う。

 コスト、納期、人的リソース。これらの制約を意識せずに、声をかけられるままに開発方針をブラブラさせたり、教育の理想をトートーと述べるプロジェクトのなんと多いことか。

 どんなに効果のある教育の理論があっても、どんなにそれが崇高で気高い理論であっても、それをカタチにしようとするときには制約が発生する。だからといって、あきらめてはならないし、悲観する必要もない。制約の中で、ベストな解を模索する必要がある。

 次に2)のgoal conconsciousness(ゴールの意識化)である。

 意識化と言っても、たいしたことではない。以下の2つの質問に答えることができれば、それでよい。このことに関して、僕はたまーにこんな質問をすることがある。

「○○くんは、○○くんのこれから開発するシステムを使う学習者が、どういう学びの光景を見せてくれたら、これだ、これをオレは見たかったんだ!って言えるの? 具体的に絵を描いてみても、何をしてもいいから、具体的に、具体的に、専門用語を一切使わないで、その光景を僕に語ってみて」

「じゃあ、そういう光景がゴールだとして、そういう光景を創り出すためには、どんな機能があればいいの?どんなサイトでなければならないの?これも一切専門用語を使わないで、絵を描きながら説明してみて」

 要するに、開発者側が見てみたい光景を具体的に描写すること、つまり、シーンベースでゴールを規定してもらう。

 これはなぜかというと、理論ベースでゴールを規定すると、すぐに議論が抽象的になってしまうからである。「僕のゴールは学びの共同体なんです」とか「僕のゴールは協調学習なんです」とか、そういう言い古されまくっている言葉でしか、ゴールを語らなくなってしまいがちだ。これでは100年たってもシステムなんかできるわけがない。

 3)のControlability & Start smallは、前にお話ししたことのあることです。

 要するに、開発を行う際は、開発者自身がコントロールできる範囲で、最初は小さく成功をつくっていって、それを積み重ねて大きな目標を達成する、ということです。だから、3)は、4)のscheduled & phased implementationに通じてるね、そういう意味では。
 
 なるべく、なるべく僕自身は、この4つを意識しながらプロジェクトを進めていきたいと思っています。だけど、まぁ、実際はなかなか難しくって、たまーに挫折することもあります。

 でも、ヨノナカでいろいろ行われている「開発」のプロセスとかを見ていると、この逆をいく開発って多いと思いますよ、非常に、つまり、こんなの。

制約を意識せず、教育の理想をトートーと語ったあげく、どういった学習が起これば成功なのかについては、考えたことなんか一切なくって、結局方針がブレまくる。やれ、開発に入ったはいいものの、こんなんじゃ、いつまでたっても具体的な機能なんかでてくるわけもないから、結局スケジュールはガンガン押していって、最後に「びっくりたまげたくん」みたいな想像すらしなかったようなシステムができあがる。

 こういう開発に携わるのも不幸だけど、もっと不幸なのは、このシステムで学ぶ学習者の方だ。くわばら、くわばら。


2003/06/01 学びはリテラシー

 アルビン=トフラーの言葉にこんなものがある。

The illiterate of the 21st century will not be those who cannot read and write but those who cannot learn, unlearn and relarn.

 要するに、「学ぶこと」「学んだことをいったん捨て去ること」「学び直す」ことは、21世紀のリテラシーなんだってことを言っている。

 読み書きもリテラシーなんだろうけど、それに加えて学べる人であるか、学べない人であるかっていうことは、不確実性が拡大する現代社会では、特に重要なんだって言いたいんだろう。

 この言葉、僕の記憶が確かならば、「Rethink....なんちゃら」という本の中にでてきた気がするんだけどな。初めて目にしたのは、随分前のことになるので、あんまり確かな記憶じゃない。

 今年になってハーヴァード・ビジネス・レビュー、日経ビジネス、多くのビジネス書が、学びの問題をとりあげている。おいおい、学習だけは一過性のブームにだけはしてくれるなよ、と思いながら、そういったたぐいの特集を本屋で見かけるたびに買ってしまう自分に気づく。

 トフラーさんは、またもや未来を見ていたのだろうか。


 NAKAHARA,Jun
 All Right Reserved. 1996 -