The Long & Winding Road - 2002/03


Photo by Miwa


2002/03/01 No child left behind act of 2002

 ワシントンD.C.の国際会議で参加者の主要な関心になっていたのは、ブッシュ大統領の提唱したNo child left behind act of 2002とよばれる教育改革法案だ。

 http://www.ed.gov/offices/OESE/esea/exec-summ.html

 No child left behind act of 2002 -

 要するに、「学力テストの成績に基づいて学校教育の成果に対するアカウンタビリティを問うことにより、学力水準の向上、成績格差の縮小をめざす」っていう教育政策のことである。

 州の教育スタンダードに基づいて開発された標準テストが小学校3年生から中学校2年生に至るまで毎年実施され、学校毎にすべての成績データは公表される。

 成績データの悪い学校には是正措置として財政的支援&技術的支援が行われるが、4年連続改善の見られない学校は、教員の移動や入れ替えなどの再編・統合が行われる。

 国際会議では、「どのようなテクノロジーを用いて生徒のアビリティを測定するか」「どのようなテクノロジーで格差を是正するか」がトピックになっていた。

 こうした法案が提出される背景には、アメリカの人種間格差、深刻な学力低下問題があるという。それは日本の比ではない。

 いつの時代も、アメリカはドラスティックな政策を性急にすすめるな、と思う。

 サイは既に投げられた。


2002/03/04 Project eX プレスリリース

 本日、東京大学で、通称Project eX、正式名称「東京大学情報学環 - メディア教育開発センター e-Learningサイト開発プロジェクト」のプレスリリースが行われた。

 プレスリリースは約1時間。東京大学情報学環の濱田学環長、山内助教授、メディア教育開発センターの坂元所長、中原が発表した。Project eXの他メンバーの何名かも、プレスリリースを陰ながら支えてくれた。

Press release : 4th, March 2002
 

  

   
 プレスリリースは東京大学で行われました。マスコミの方に、予想以上にご参集いただきました、ありがとうございました。右の図は、システム開発について、中原がデモンストレーションしている場面です。
  

 プレスリリースで用いた資料などは上記のURLで参照していただければ幸いである。

  http://www.nakahara-lab.net/ex/exmain.html

 プレスリリースが終わったのはつかの間、明日からはまた開発がはじまる。機能実装も最後のツメを行わなければならないし、それが終わればデバックだ。

 プロジェクトメンバー一丸となって、4月1日のオープンを迎えたい。


2002/03/05 ボランティアと教育

 ボランティアが教育現場に積極的に導入されようとしているそうです。今まではかけ声だけが主体だったんだけど、実践が増えてきているみたいなんですね。

 でも、いろいろな人の話を聞くと、やっぱり学校教育でボランティアをやろうとすると、かなり困難みたいですね。

 「ボランティアを教育現場にどんどんと導入すべきだ!」ってのは言うのは簡単なんだけど、不可避的な困難がつきまとう。

 たとえば、ボランティア=福祉だろう、とかっいって、老人ホームに中学生とかが先生に引率されて訪問するわけです。ときには、自分たちが図工の時間につくった作品とか持ってね。で、老人たちの前で歌なんかうたっちゃう。話しかける場合もあるようですね。

 でも、訪問される方からすれば、ワケノワカラナイ中学生がいきなり訪問してくるってのは、かなりビックリですよね、「見せ物じゃないんだ!」と怒っちゃう老人もかなり多いらしい。こういう訪問の仕方ってずいぶん多いみたいで、それはそれで大問題になっているようですね。要するに、ボランティアする文脈をつくるのがなかなか難しいのですね。

 そのあと、生徒たちは学校に帰って、リフレクション、振り返りなんかをするわけです。先生が「今日のボランティアの感想を書きなさい」っていうわけですね。

 そうすると、だいたいでてくる感想が「ボランティアはすばらしい」とか「ボランティアをまたやりたい」とか、いわゆる美しい物語だったりすることが多い。

 「もうイヤだ」とか「なんでこんなことやらなあかんねん」という生徒が一人くらいいてもいいんだけど、で、そういうところから、ボランティアする意味みたいのをみんなで考える授業が展開してもよさそうなものなんだけど、そういう話はなかなかでてこないわけですね。要するに指導もなかなかムズカシイのです。

 ボランティアを教育現場に導入しろ、と言うのは簡単です。でも、その先は、それほど簡単じゃない。現場の先生に、ものすごい力量と苦労が必要なようです、たとえばコンテキストをつくったり、リフレクションさせるような。それはそれでチャレンジングなことですが、実践には覚悟が必要なようです。


2002/03/10 メディアリテラシー

 3月9日、10日とMELL(Media, Expression Literacy & Learning)Projectのシンポジウムに参加した。

 1日目は、メディアアーティストの安斎さんと中村さんによるワークショップ、夜は懇親会。安斎さんと中村さんは、連画(http://www.renga.com/)やInterwallなどの作品で有名なアーティストである。

 当日のワークショップで行われた「カンブリアン」の意味は、まだ自分なりに整理できていないんだけど、おもしろかった。

 2日目は、民放連プロジェクトの報告と、バリーダンカンさんの講演。

 民放連プロジェクトは、メディアリテラシー育成のためのテレビ局と学校のコラボレーションを目的にしていた。具体的には、テレビ番組のワンコーナーを高校生が制作するという内容。示唆に富む内容だった。

 メディアリテラシーって聞くと、なんだか「獲得しなければならぬのだー」という感じがして、なんだか面倒くさいなーとか、政治っぽいなーとか、とっつきにくい感じがするんだけど、今回の発表では、「メディア批評」よりも「メディア表現」を重視して、そういう雰囲気を解消していた。

 来年のシンポジウムも楽しみにしている。


2002/03/13 ウマイ話

 僕の専門は、教育工学です。

 かつてならば、教育工学の主要な研究はハイパーメディアの教育利用。ちょっと前はマルチメディア、最近はITの教育利用、あるいはe-Leaningになるのでしょうか。

 教育工学の世界は、ハヤリモノがめまぐるしく変わります。そう、数々のテクノロジーが泡沫のように生まれては消えるのと同じように、教育工学それ自体もめまぐるしく変わっていきます。

 そして、それを専門にする限り、どうしても、ハヤリモノテクノロジーの教育利用とかを研究することがどうしても多くなってしまいます。

 で、そんな世界に身をおいていると、どこからともなく危険な香りがしてくることがあります。

 口角泡をとばしつつ、テクノロジーに彩られた教育の未来を力説する人がたくさんいます。そういう人の語る未来は、その人色、一色に染まっています。

 「うまい話」を持ちかけられることなんか、日常茶飯事です。毎日、誰彼からうまい話を持ちかけられている、と言っても過言ではないかもしれません。

 でも、そういう場所にいると、だんだんとそういうウマイ話のからくりを見抜くことができるようになるのですね、悲しいかな。

 ちょっとの想像力が必要ですが、そういう感覚がわかってくるようになると、ウマイ話の背後に隠れる権力性や政治性、そのほかたくさんのカラクリがvividに見えてくるようになります。

 簡単だとは思いませんが、たった少しのことをまず想像すればよい。

 なぜこの人は、こんなウマイ話、壮大な話を、僕にするのだろうか?
 この人のメリットはどういうことで、その場合の僕のメリットは何か?

 だいたいにして、ウマイ話をおいそれと人に語ってくるときには、何らかの思惑があるはずですよね。それを見抜く必要があります。双方の思惑がマッチすればコラボレーションに発展するけど、そうでない場合の方が多いですから気をつける必要があるのではないでしょうか。

 で、それを想像したあとに、次には命題を思い出します。

 「そんなことの簡単だ」というコトバの、「そんなこと」を達成するためには、彼の語る「簡単だ」の10倍の負荷がかかる。

 おー、そうだった、そうだった、と思い出せばよいですね。「うまい話に描かれた未来に思いを馳せること」とい「自らうまい話の未来を描くこと」とは別物だというです。何かモノゴトを動かすことってのは、本当に労力がいります。

 そうしてこういうウマイ話には必ず即答はしないで、じっくり一晩考えることです。

 僕の知り合いのある方は、「うまい話」が書いてあるメールは数日間メールボックスにわざとためておいて、じっくり考え抜いたあとで返事を書く、という人がいます。そういう知恵をみんな駆使しているってことです。

 とはいうものの、つい断れなかったり、乗せられてしまったりすることも多々あります。そのたびに、自己嫌悪に陥るんだけど、それも修行のひとつだと思っています。

 まぁ、そうはいっても、それ故に、オモシロイところもあるんです。リスクがあるからオモシロイってところもたぶんにある。だから、ウマイ話をすべて否定できるわけじゃない。その中には、玉のように光るステキな話もありますから。事実、僕自身、そういう経験を今まで何度もしてきました。

 うまい話、あなたもご用心。


2002/03/14 ネンドマツとトールキン

 なぜかは知らないが、ネンドマツってのは、本当に忙しい。このところ、本当にじっくりと休みがとれない。休日もなんだかんだ、といろいろある。おうちに帰ってきても、なんだかんだ、仕事をしなければならない。

 「忙」しいという字は、「心(ココロ:りっしんべん)」を「亡(滅ぼす)」と書くのだ、という話を以前この日記でもしたことがある。

 中には、忙しい、忙しいといって喜ぶ人、僕から言わせれば、「畳の上では死ねないカタギではない人」もいるけれど、多くの人々は、あまりにも忙しくしていると、ココロに潤いがなくなってくる。

 というわけで、先日、仕事が終わってから、公開されたばかりの映画「ロード・オブ・ザ・リング」を見に行った。ドラクエほか、多くのRPGのお手本になったという、トールキンの「指輪物語」を映画化したものである。

トールキン 「文庫新版 指輪物語」 全9巻セット

トールキン 「新版 指輪物語〈追補編〉」

ロード・オブ・ザ・リング公式ガイドブック

 いい、理由なくいい。

 本当にスゴイ映画だと思う。よく、こんな映像をつくりあげたものだ。それに音楽もさ。どこかファイナルファンタジーに似てる感じがするんだけど、本当に超大作です。

ロード・オブ・ザ・リング サントラ

 いやー、ファンタジーでココロ潤いました。もうタプタプだべ。ココロがネンドマツに浸食されていたら、是非おすすめです。

 あなたのココロ、大丈夫ですか?


2002/03/15 流体的

 ヨノナカのあらゆるモノは、流体的でなければなりません

 僕の考える<流体>は、混沌としていて、複雑であり、いろいろな色に染まり、カタチをかえ、大きさをかえ、期待を裏切り、かつ何事にも変貌可能でなものです。

 要するに、その陰影をとらえようとしても、一元的な尺度が通じない! とらえきれないその輪郭。それが、<流体>的なものなのです。

 思想に関しても、一元的な尺度によってはかられる思想ってのは非常に危険です。政治だって、民主主義っていうのは、簡潔にいえば、流体的な意志決定システムなわけですね。

 そして、このことは、教育に関してもいえます。

 たとえば、ある先生がいたとしますね。ものすごいパワーとカリスマで生徒を引きつけ、生徒は、その先生のおかげですばらしい教育経験をする。

 でも、教師と生徒という関係には、いつか終わりがきます。社会的には必ず終わりがくるんですね。

 でも、こういうカリスマに魅了されてしまった生徒さんは、なかなかその先生のつくりだした<世界>から、先生の色そのまんまの非流体的な<世界>から抜け出せないってことがよく起こります。

 そして、その<世界>以外のものが受容できなくなってしまう。<世界>の判断基準を、<ソトの世界>にもあてはめようとしてしまう。その<世界>のソトにすむ人たちとの間とのコミュニケーション可能性を失ってしまう。

 こういうことが教育ではよく起こるんですが、こういう教育のある側面を「宗教だ!」と否定して得意になっちゃう人がいますね。ちょっと違うんです、そういう批判は間違っている。

 もともと教育は非流体的な<世界>の押しつけを根元的に含む営みなんですね。教育は最初からある側面において、非流体的、すなわち、宗教的なわけです。

 問題はその先にあるのです。いったん非流体的<世界>に染まってしまった、その世界の一部分を、解体するのではなくて、再構築しなければならない。

 つまり、今まで自分がいた<世界>と、<ソトの世界>の秩序や制度を組み合わせて、新しい「世界」をつくりださなければならないのです。

 そして、新たにつくりだされた世界は、いつのまにか、非流体的な<世界>になってしまう。そうしたらまた、再構築しなければならない。

 この再構築を「学習」と形容するならば、そうやって人は学習し続けることが必要になります。学習するということは、非流体的な「世界」に常に身をおくということなのです。

 なんだかムズカシイ話になったけど、この話、いわゆる教授と大学院生の間でも起こることですし、上司と部下でもそうなんですね。あなたの身の回りにだって、あてはまる事例はたくさんあると思います。

 そういえば、かつて誰だったかな、現場の教師の人に聞いた話なんですが、その中学校の先生は、中学2年生と中学3年生のクラスを持ち上がりでもった場合には、特に気をつけるそうです。

 何に気をつけるかっていうと、中学2年生のときは、強い指導力でクラスをまとめていって、コドモたちが快く生活できるようにする。このうえなく団結力の強いクラス、仲のよいクラス、いいじゃないですか。そういうクラスにする。

 でも、中学3年生のときにはあえてそうしない。

 なぜなら、同じようにまとまったクラスで、コドモがあまりにもそのクラスを快くおもって生活してしまうと、彼らが高校にいっても、「ステキな中学3年生」の時代をひきずって生きていくコドモが多くなってしまう。

 そして、ヒドイ場合には、多くのコドモが不適応を起こしてしまうんだそうです。だから、その先生はココロを鬼にして、コドモが次の世界にエントリーできるようにしてあげるそうです。二つの世界の橋渡しをしてあげる、ということでしょうか。それがその先生の優しさ、なのかもしれません。

 流体的な世界


2002/03/16 はらほろひれはれ6年生

 ひょんなことから知り合いになり、それ以来、親交の続いている関西学院大学のアッチャンが、「はらほろひれはれ6年生」になってしまった、否、なりつつある。否、無理矢理6年生させられようとしている。

 彼は、納得のいく就職活動がしたくて1年留年したんだけど、なんと、卒業を目前にして、単位未取得が発覚。単位制度上のミスというか、不備のために、彼は6年生を余儀なくさせられようとしているのだ。

 コトの顛末は、アッチャンのつくるサイトをみてほしいんだけど、今、大学側と争っている。

 http://axis.milkcafe.to/
 http://axis.milkcafe.to/univ_top.html

 上記のコンテンツ、涙なしには読めないが、同時になんだか苦笑もこみ上げてくる。アッチャンが滑稽なのではない。それは断じて違う。アッチャンへのオトナたちの対応が時に滑稽なのだ。

 彼はいわゆる告発サイトをめざしているわけではない。

 彼自身、日記で述べているとおり、「社会の暗部にメスを入れるより、社会の恥部に爆笑したい」のだという。モノカキになりたいアッチャンのつとめて健全な精神が、ここから読みとれる。

 文章も非常にうまい。オチもいい。つとめて、今回の事件では、彼は非常に冷静で論理的である。Webの製作技術もある。

 何にも考えないで、サークルやバイトやカイガイリョコウにあけくれ、単に何となくダイガクを卒業し、何となく就職する、今時あまりはやらない大多数の大学生よりは、よっぽどステキな学生生活を送っているように思うし、ポテンシャルを感じてしまう。

 僕はそんな彼を応援したい。
 みなさんも、そんな彼に励ましのことばを。


2002/03/17 ゆとり教育

 教育は常に混沌、矛盾、論争、そして葛藤の中にある。その意味から言えば、教育問題というのは、絶対に解消はしない。

 問題解消されては困るのだ。問題なき教育は、おそらく教育ではなくなっているから。強化とか鍛錬とか、そういうアヤシゲなものに名前を変えているだろうから。

 それにしても、教育に論争や葛藤がつきものだということを大前提にしたとしても、よく言うよ、と言いたくもなる。

 最近のマスコミの論調、それに扇動された世論には、目を覆いたくなる。いわゆる、学力低下によるゆとり教育批判というやつだ。

 受験の弊害、偏差値教育批判。

 コドモに課せられたありとあらゆる競争をさけよ、と声高に主張したのは誰だったか。それを望んだのは、誰だったのか?

 受験 → 偏差値 → 荒廃する心・校内 →
 いじめや校内暴力 → 教科内容・学習時間の削減

 という屁理屈同然の図式をヨノナカに流布させたのは誰なのか?

 ゆとり教育、すなわち競争をゆるめ、教科知識や学習時間を削減すれば、マクロな視点からみれば、いわゆる学力は低下するのはアタリマエのことである。

 だって、勉強してないんだもん、経験が少なくなっているんだもん、いわゆる学力が低下するのはアタリマエ。そんなことは幼稚園児でもわかる。

 それを今更、自分たちで世論にタネをまいておいて、急に反対のことを言い出すなんて、本当に節操がないなーと思う。自分でまいたタネは、自分たちで刈り取ってほしいものだ。

 ここでこう言ったからと言って、別に、ゆとり教育万歳!と言いたいわけじゃない。

 僕はもともと、機会均等に基づく競争はどんどんやるべきだ!と思っているし、学ばなければならないものは、やっぱり学ぶべきだと思っている。僕自身は、「ゆとり教育」とか「心の教育」とか、そういうどうも短絡的な、というか、論理的じゃない処方箋には反対だ。

 だから、別にゆとり教育を批判するのは好きにすればいいと思う。でも、ついこないだまで学校にゆとりを、コドモの心にゆとりを、と叫んでいたのに、その変わり身の早さと責任のなさ、節操のなさには、どうしても、納得ができない。

 世論を動かす人、政策をつくる人。もう少し自覚を持ってほしい。
 僕は絶対に忘れへんで。


2002/03/19 僕らは学ぶ

 僕らはついていかなければならない。教育工学ピーポーの特に若手は学ばなければならない。

 テクノロジーから遅れてはいけない。テクノロジーを盲進するのではない。無知であることは、危うい。テクノロジーの過度の信仰を持たぬために、教育現場におけるテクノロジーのタダシイあり方を提言するためにも、常にテクノロジーウォッチャーでなければならない。

 それにしても、.NETしかり、Flash MXしかり、Handheld computingしかり、無線LANしかり、CDNしかり。
 最近、勉強しなければならないことが多すぎる。

 夜寝る前の布団の中、脱糞中のトイレで、僕らは今日も学ぶ。


2002/03/20 ワインパーティ第二弾

 先日、りえさん宅にて、ワインパーティが開かれました。2度目になるかな、先日は我が家でやりましたが、懲りずに2度目です。カミサンの高校時代のお友達なので、みなほとんど関西人。関西人あつまりゃ、主食はお好み焼き。

ワインパーティ第二弾
 

  

   
 この日の主食は、お好み焼きでした。ほとんど、お好み焼きはカンチャンがつくった。

   

ワインパーティ第二弾
 

  

   
 今回の会場を提供してくれたのは、りえさんでした。右の写真は、りえさんと彼のたけしくん。左は、ハマ、食事中。

 ともかく楽しい時間を過ごすことができました。ふだん、みんなとても忙しい生活をしているので、こういう時間は必要だろう。

 この日は5本のワインをあけました。ここぞとばかりに僕も奮発して、シャトー・ソシアンドマレとか、普段は飲めないワインをたくさん買っていった。よかった、よかった。


2002/03/22 あっちゃん、祝・卒業!

 あっちゃん、卒業おめでとう。

 卒業を目前にして、単位未取得が発覚、留年の危機にさらされていたアッチャンの卒業が無事に決まったとの報告を受けた。

 ホンマ、よかったな!

 数あるシナリオの中で、一時は一番可能性の低いと思われた、そして、最も困難と思われた「卒業」というシナリオ。彼はそのシナリオを無事書き上げた。

 http://axis.milkcafe.to/
 http://axis.milkcafe.to/univ_top.html

 詳しくは、上記の彼の日記をみてほしいんだけど、本当によくやったと思います。そして、その過程を記した上記のコンテンツはモノすごいコンテンツだ。

 このコンテンツには、大学という場の特殊性、その制度の矛盾、そこに生きる人々の葛藤が見え隠れしているんですね。彼は、そういう矛盾や葛藤を平易な言葉で、冷静に、明らかにした。僕には、こんなスゴイものは書けません。

 各種の客観的なデータを集め、論点を冷静に明確にし、主張する。どんなに打ちのめされようとも、あきらめず主張する。彼がこの1ヶ月で体験したことは、本当にものすごい知的作業だったと思います。ときには、プライドを傷つけられることもあったろうし、愛校心満点の彼のことだから、引き裂かれるような想いをしたにちがいない。本当によくやった。褒めすぎかもしれないが、立花隆の田中角栄研究を思い出してしまった。

 卒業が決まったあっちゃん、次は何をするかは彼自身が決めることだけど、自信をもって、ドーンと世にでて、今回以上にすてきなシナリオをつむいでいって欲しいものです。

 卒業、おめでとう。


2002/03/23 SAKURA

 今日、カミサンと花見に行った。今年の東京は、春の陽気、2週間早く。桜も先週あたりからずいぶんと見かけるようになっていた。

 公園はとっても混んでいた。

SAKURA
 

  

   
 今年は本当に開花がはやかった。いつだったかな、一日か二日暖かかった日が続いたなーと思ったら、ガーッと桜がさいた。桜のロケとか予定していたディレクターは困っているらしい。

   

ZOO
 

  

   
 カミサンの妹のジュンコさんは、小さい頃、ペンギンを家で飼う!とだだをこねていたらしい。是非、飼って欲しかった。クーラつけっぱなしかな、冬でもおちおち、こたつもだせないんだから。

 ふだんは全く花なんぞに興味を持たぬ人々も、一年に一度花を愛で。桜満開の今でさえ飲酒やカラオケに夢中な人々も、風がふいて桜吹雪舞ったときには感嘆の声をあげる。

 帰りは数年ぶりに動物園に立ち寄った。テナガザルがブラブラといったりきたりしていたのが一番印象に残った。

 肩についた筋肉、背骨のきしみをみていたら、一瞬、サルが人間にみえた。

 そうか、所詮、人間は猿なんだと心の底から思った。そう思ったら、日頃いろいろ心を悩ませていることが、どーしょもなくクダラナイことに思えた。所詮、僕はサルなのだ。

 サルはサルなりにやればいい。


2002/03/24 山内研のヒトビトと

 先日、某所で東京大学情報学環の山内研究室のヒトビトと宿泊こみのお勉強会(研究会)をやった。日頃、みんなで取り組んでいるプロジェクトの報告、総括に加え、研究方法論の基礎をじっくり学んだ。

YAMAUCHI-KEN@U-TOKYO
 

  

   
 左の写真は、ミーティングの様子。松浦君(左)と山内さん(右)。右の写真は、帰りみちに桜スポットでとった記念写真。

 今回の会には、M0(エムゼロ)、すなわち、4月1日から修士課程に進学する人たちも参加した。M0の人たちは、これから研究生活がスタートする。戻りたいか?と聞かれたら、「うーん、もう一回論文書くのはイヤだなー」と思いながらも、なんだか、少しだけ羨ましく思えた。


2002/03/25 喫煙天国

 僕は3年間大阪に住んだことがある。東京には学生時代4年間と、就職してから1年間、計5年だ。

 大阪と東京に住んだ経験をもっていると、たとえば、「大阪どうよ」「東京はどないよ」という質問をされることが多い。

 大阪と東京の違いネタは、僕的には、しゃべりすぎて、もはやペンペン草もはえぬ話題なんだけど、あまりみんなが知らないと思われることに、喫煙がある。

 大阪、そこは喫煙天国だ。

 正確にいうならば、街にある灰皿の数が尋常じゃない。たとえば、駅や公園。大阪では、そういう公の場所の至る所に灰皿がある。「どうぞ、ここで吸ってちょうだい」と言わんばかりだ。

 否、別に灰皿があったからといって、喫煙を推奨しているわけじゃないと思うんだけど、喫煙者にはとっても過ごしやすい。

 タバコのポイ捨ての多くは灰皿が少ないことに起因することを考えれば、これは街の美化とかにも貢献するわけで、非喫煙者にとってもメリットがあるように思う。

 非喫煙者の中には、喫煙という習慣を毛嫌いして、喫煙者を非人格者よばわりする人がいるが、それはかえって逆効果だと思う、なんら生産的じゃない。元喫煙者が言うんだから間違いない。

 なぜか? それは喫煙はタバコを含んだライフスタイルに対する中毒だからである。それは意志の強さとか弱さだけでやめられるもんじゃない。もう一度いう、それは中毒である。だから、目くじらたてて非喫煙者が喫煙者を責めても、どうしようもないのだ。

 個人的には、喫煙をやめてよかったとは思っているけれど、僕は強制はしない。ただ、喫煙者と非喫煙者が今よりはシアワセに暮らせることができればいいな、とは思う。

 もっと灰皿増やせばいいのに、東京も。


2002/03/28 最新刊

 このところ僕が読んだ教育関係の新刊たちの紹介。

 苅谷剛彦(2002) 教育改革の幻想. ちくま新書, 東京

 苅谷氏によれば、近年の教育改革の議論が前提にしていた以下の

 学歴社会が招いた受験競争 → 生徒・児童を疲弊 → 教育問題

 という事実認識は間違っており、それに基づいて立てられた様々な施策、たとえば「ゆとり教育」や「子供中心主義の学習」は非常に危険だという。この本では、このことを非常に平易に、実際にデータを示して論じている。教育改革を勉強したい人にお勧め。

 以下の本は、動機付けの心理学について非常に平易に解説してある。市川伸一氏が和田秀樹氏と苅谷剛彦氏と対談をしている。特に、苅谷剛彦氏との対談は、非常にオモシロイ。

 市川伸一(2001) 学ぶ意欲の心理学. PHP新書, 東京

 お次に大学関係の本。

 「大学=サバイバルせなー」という認識が相当広まってきているのだろうか、この認識にたつ本が2冊出版されている。

 石 弘光(2002) 大学はどこへ行く. 講談社現代新書, 東京

 うーん、どこにいくんだろう、大学は。
 一橋大学の学長先生が語る大学の未来。独立行政法人のことなんかについて、詳しく述べられている。そういえば、先日、「国立大学の教官は非公務員」という文部科学省からのアナウンスがでましたね。
 激動だ。でも、僕は着任した当初から激動だから、なんだか正直言って、あまり激動な感じがしないけど。最近、ひとつ気になっているのは、

 日本の大学は競争がない → 日本の大学は研究業績が少ない・日本の大学は教育もキチンとやっていない
 → だから競争すべし

 っていう図式ホント?

 蓮實重彦(2001)私が大学について知っている二、三の事柄. 東京大学出版会, 東京

 いわゆるイケイケドンドンの「大学論」ではない。イケイケドンドン系の大学改革本に食傷気味のアナタにおすすめ。新しい記号の創造の条件となる社会的、歴史的なコンテクストと大学を語った本。以下では、蓮實氏のインタビューが聞ける。

 蓮實重彦インタビュー(http://www.utp.or.jp/bulletin/hasumi.html)

 最後はナレッジマネジメント!

 マイクロソフトナレッジソリューション部(2001) 個人と組織のナレッジイノベーション. アスキー, 東京
 

 マイクロソフトのナレッジソリューション部が書いた事例中心のナレッジマネジメント本。理論だけじゃなくて、実際の具体的な事例があるのがいいな、と思いました。

 我が読書は続く。


 NAKAHARA,Jun
 All Right Reserved. 1996 -