The Long & Winding Road - 2001/01


2001/01/01 2001年のマーチ

 幼稚園のころ、僕はホントウにカラダが弱かった。なにせ、幼稚園入園と同時に、そのまま体調を崩して、白ビル送り、入院3週間を経験したくらいだ。おかげでみんなに名前を覚えてもらえなくって、ずいぶん苦労した。

 ところで、幼稚園のころの思い出といったら、まず、学園祭でやった「お店やさんごっこ」を思い出す。僕は「おみやげやさん」をやったハズだ。「金色の折り紙」をふんだんにつかい「ゴージャス感」を全面にだしたコンセプトの明確な品揃えで、価格競争にうち勝った。ふふふ。そして、その次に思い出すのが学芸会でやったお遊戯「2001年のマーチ」である。

 鉄腕アトムのアタマみたいな「帽子」をかぶって、白いセーターに白いタイツで、僕はこのお遊戯を踊った。舞台背景は、近未来都市だった。お遊戯がうまく踊れたのか、踊れなかったのかはよく覚えていない。が、「白ずくめの奇妙な衣装」と「近未来都市の舞台背景」だけは、それから20年の歳月が流れた今でも、鮮明に覚えているから不思議だったりする。

 そして、2001年。今日の日は、Aniversary。
 近未来都市を背景にして、ソメノスケソメタロウが白いタイツをはいて踊っているなんてことは、もちろんない。

 「2001年のマーチ」を踊っていた当時の僕(悪いけど可愛かった)は、もちろん、2001年がいかなる時代であり、その見果てぬ時代に僕が何をしているかは知るよしもなかった。また2001年を迎えてしまった今でも僕は、「眼前に広がる2001年」が僕にとってどのような意味をもつ年になるかは、まだわからない。2001年は、僕と僕のまわりにいる人々の織りなす「これからのテクスチャー」である。

 そんなことを考えていたら、ふいに「2001年のマーチ」がどんな曲調だったのかを20年ぶりに思い出した。ただただ明るく愉快な曲だった。


2001/01/02 ビジネスモデル特許

 おー、正月からコアな話題だーと思うかもしれないけれど、この正月というヤツは、本をまとめて読むのに、ちょうどいい。テレビはオモロないし、ビデオもずいぶん見たので、本気でヤルコトがない。

 外にでても氷点下だし、一年やそこらで旧友にあってもしゃーない。よって、イエで読書ということになるんだけど、これがまたまた問題で、田舎には専門書はなかなかない。実用書とかビジネス書か雑誌くらいしか、ないんだな、これが。

 というわけで、「ビジネスモデル特許入門」という本を買ってきて、読んだので、その感想を。

 最近は、大学にも特許の波が押し寄せている。TLO(技術移転機関)っていうのが整備されはじめてきていて、本格的に特許のことを研究者が考えなければならなくなったのは、去年くらいのことらしい。論文として「公知」になる前に、それが特許申請できる場合には、申請をして特許をとる。こういう流れを知ったのは、僕もゴクゴク最近のことで、ついこないだまでは「特許」って言ったら、「東京特許許可局」という「ハヤクチコトバ」くらいしか知らなかった。

 米国の大学では、TLOが早くから整備されてきて、最近調子が悪いというIT分野のベンチャーを陰ながらずっと支えてきたのだといいます。サンマイクロシステムズとかシスコシステムズとかヤフーとか、シリコンバレー系の起業は、スタンフォード大学と密接な関係ができていて、うまく技術移転を行ってきたらしいですね。そういう流れが、日本の大学にも押し寄せようとしてきているらしいですね。

 本を一読後の感想としては、ビジネスモデル特許に関しては、「えっ、こんなんでもエエンカイナ」と思う一方で、「これを独占されたらオシマイだな」と思ってしまうものも多いわけで。特に後者の方は、結構懸念してしまうところも多いです。

 なんでかっていうと、たとえば、学習を支援するネットワークシステムの場合、チャットとか掲示板とかは、ある程度、カタが決まってきていて、結局、あと開発の残された部分っていうのは、「見え=インタフェース」の問題になると思うんですね。でも、この「見え=インタフェース」の部分が、一企業に独占されて、本来ならば使いやすくわかりやすい学習システムをつくれるところが、それができなくなるとすれば、それはモノスゴク問題だったりします。「消えゆくコンピュータ(岩波新書)」を書いた久保田晃弘氏が、「インタフェースは特許化されるべきじゃない」と主張しておられますが、まさに僕もそれと同感で、それは学習コミュニティの共有財産であるべきだと思います。でも、同時に時代の趨勢は、そうはならないような気もする。

 というわけで、僕としてはこれからガシガシと特許を申請して、あわよくば小銭王になりたいってなことを考えているわけではないんだけれども、こうした動きは、こうした今後も注意して見ていきたいと思っています。


2001/01/03 老い、この語り得ぬもの

 今回の帰省で、久しぶりに両親の母、つまりは、僕のおばあちゃんに逢いました。どちらも、元気そうだったけれども、ものすごく気になったのは、彼女たちの「老い」です。なぜかわからないけれど、二人のおばあちゃんを見ていると、涙がでてきそうになる。可哀想というのでもないし、ウン、決して哀れみの感情で見ているわけではないし、明確に悲しいというわけではないのだけれども、やっぱり涙がでてくる。

 正月からディープな話題ではあるけれども、今日は、「老い」について書いてみたい、永ロクスケではないが。

 なぜ涙がでてきそうになるのか。

 あとからいろいろと考えたのですが、それはどこか人間という存在一般に対する無情さとかやりきれなさのためではないのかなーと思ってしまいました。否、無情さとかやりきれなさというよりは、どこか「畏れ」に近いところがあるような気がします。

 老いという問題は、これまた特殊な問題で、誰にでも、誰彼かまわず、いつかはその問題にぶち当たるものなんですよね。で、僕は二人のばあちゃんに、人間という存在に対する<畏れ>を見たのではないかなーと思ってしまうんです。

 人は生まれながらにして、死に一歩一歩近づいていく存在である

 そう言ったのは、誰だか忘れちゃったけど、今の僕には、正直言って、このコトバを表した人みたいに、明確に自分の感じた<畏れ>というものを、表現するスベをもっていないようです。日記というものは、大凡、自分の感情の機微を明快にコトバにあらわしていく「明示的な作業」なわけで、今の僕は、この話題を日記に書くことはできないなーなんて思ってしまいました。「老い」という話題を日記に記しつつも、記すことはできない、というのは、いささか逆説的ではあるけれども、これはイタシカタナイ。

 ただただ祈るのみです、二人のばあちゃんの健康と長生きを。おばあちゃん子の僕としては。


2001/01/04 紅白よかった!

 うちの研究室のオンボロ28Kモデムが「ぶっとんでいる」せいで、ずいぶん長い間、ホームページの更新ができなくて困っているんだけど、実は、ちゃんと毎日日記を書いていたのですね。今日は、時期はずれなきもするけれど、なんと紅白のハナシ。

 ていうか、今年の紅白はなかなかよかったです(視聴率は過去最低だったみたいですが・・・)。僕がよかったなーと思うのは、いつもの年にまして、工夫されて曲順が配列されていたこと。演歌とヤング曲(ヤングなピーポーが聴く曲だ)がちょうどよく配列されて、リモコンのザッピングに耐え得るプログラムになっていました。今年は、結局、僕は一度もザッピングをしなかった。おそるべし、NHKの演出力。学習内容の選択と配列に関しては、教育工学の研究分野なわけで、紅白から学ぶところ多し。

 あと、ライオンキングのミュージカルが「応援」に挿入されていて、これもなかなかよかった。去年、このミュージカルに行ったときのことを思い出しました。これは個人的な思い出だねー。

 ただ、ひとつだけ気になったのは、ミカワケンイチだな。別に、ミカワケンイチが嫌いではないし、彼の楽曲「東京ホテル」がイヤなわけではないんだけど、あの演出はないだろーって思います。だって、曲は「東京ホテル」なんだよ。それなのに、彼の衣装は中華風で、なんかワケワカランうちに、引田テンコウによるマジックがはじまっちゃってる。これぞ、「コンセプトのなさ」を反面教師として学ぶための素材ですねー。

 来年にも期待しています。それにしても、ユキサオリの「赤とんぼ」は何度聞いても泣ける。


2001/01/05 月光

 僕は音楽を聞くとき、Tuneと同じくらい、Lyricに感動してしまう人間である。今日、前からほしいと思っていたCDを買ってきた。鬼束ちひろの「月光」。

 I am GOD'S CHILD
 この腐敗した世界に堕とされた
 How do I live on such a filed?(○)
 こんなもののために生まれてきたんじゃない

 (中略)

 心を明け渡したままで
 貴方の感覚だけが散らばって(○)
   私はまだ上手に片づけられずに(○)

 I am GOD'S CHILD
 この腐敗した世界に堕とされた
 How do I live on such a filed?
 こんなもののために生まれてきたんじゃない

「月光」鬼束ちひろ

 渋い!、あまりに渋すぎる! この歌詞が渋い! 好きなところに(○)をつけておきました。中原賞をあげたい。「感覚が散らばっている」というところが文学ですね。この部分はアマチュアだったら、「この部屋に君の香りがまだ漂っている」なんて書いちゃうところだ。「How do I live on such a field ?」も、ケツの青い若人だったら、手紙なんかで「I can't live without you」と書いちゃうところです。こういうディテールが渋い。この曲、CDを何度も聴いて、耳コピーして、ピアノで狂ったように歌ってしまった。あーすっきりした。

 それにしても、「How do I live on such a filed ?(こんな場所でどうやって生きろと言うの?)」って聞かれてもなー。「だったら、他にいきますか?」としか言えんなー。


2001/01/06 初学者のモヤモヤ感

 僕がこんなことを語ると「この若造が!」と思われちゃいそうだけど、「若造なんでゆるちて」ってな感じでかたります。今日は、学際的分野とよばれる分野を生きる人のモヤモヤ感についてです。

 一般に学問の世界には、学際領域(interdiciplinary domain)っていうのがあります。折衷領域とも言いますね。要するに、「何でもあり分野」って言ったら言い過ぎかもしれないんだけど、既存の学問分野のちょうどハザマの研究対象に取り組んでいる領域のことを言います。

 学問には、その学問ごとの約束事があります。「お作法」というのでしょうか。要するに、ある問題をどういう風に見て、どういう風に問題をたてて、どういう風に結果をだすかに関する約束事です。これを「ディシプリン(Dicipline)」と言いますが、学際領域には、確固たるディシプリンはありません。だから、「学際的領域(inter-dicipline)=ディシプリンのハザマ」なのです。

 じゃあ、どうして学際的な領域に生きる人がモヤモヤ感をもつかっていうと、それは確固たるディシプリンがないからです。だから、不安になっちゃう。正確にいうならば、ディシプリンがないってことは、ディシプリンに守られないってことを意味しているわけですね。
 ディシプリンがないってことは、どういう風に問題をたてても、どういう風に結果をだしてもよいわけで、実質、どこからか既存の学問分野のディシプリンを借りてきたり、それらを組み合わせたりして、アウトプットをだしていきます。

 なんだ、そんなことはタイシタことがない、って思うかもしれないんですが、「そのミチに生きようと覚悟を決めた人=研究者として生きていこうと思った人」にとっては、タイシタことがないと思うんです。

 でも、初学者は違うのですね。自分がどんな学問をやっていて、それがどういう作法をもっているかっていうのは、彼らにとってはかなり重要なことらしいのです。つまり、彼らのアイデンティティ「俺って、こんなことをしている人間なんだぞー」っていうのは、かなりの部分、ディシプリンによってカタチづくられているところがある。

 たとえば、これは学際領域の進んでいるアメリカで顕著なのですが、アメリカでは、ものすごくたくさんの学問分野が生まれています。たとえば、認知科学だけに限って言えば、認知社会学とか、認知工学とか、認知人類学とか、まぁ、数え上げてもシカタがないくらい、アタラシイ学問分野が生まれている。

 その分野をつくりあげた人は、そうしたアタラシイ分野を自ら名乗っていることがアイデンティティ形成にむすびつくわけで、これは問題が全然ない。ところが、初学者はかなりつらいわけですね。

 たとえば、僕は開き直っているからもういいんですが、僕の研究分野「教育工学」に関しても、これは言えます。僕の場合、認知(心理学)の理論を借りてきて、テクノロジーにそれを応用するっていう研究をしています。だから、心理学をかじっているとも言えるし、テクノロジー(工学)をかじっているとも言える。で、問題は、たとえば正月なんかに、親戚なんかにこう聞かれるわけですね。

 「じゅんちゃんは、何の研究をしているの?」

 そうすると、かなりコトバにつまります。厳密に言えば、言えないこともないけれど、これはムズカシイわけですね。だから、お茶を濁すことになるわけで、僕は開き直っているからいいんだけど、人によっては「イッタイ、俺って何をしてたんやろー」と思い悩むことになっちゃうわけですね、要するに、最初のハナシに戻すなら、こういう風にモヤモヤ感が発生してしまうわけです。

 この問題に対応するためには、やはり「マップを書く」というのか、自分が広大な学問領域の中でどこに位置づく研究をしているのかを確認するしかないと思うのですが、それは初学者にはかなりつらいことです。

 学際性のある研究をなさっている方は、この問題にどう対処なさっているのでしょうね。また、学際性の高い教材なんかを作る人も、こうした初学者のアイデンティティ浮遊の問題をどう防止しているのでしょうか。ご意見を伺えたらなーと思っています。


2001/01/08 Steve Jobs

 今日のヒアリングマラソンの課題は、Steve Jobsのパブリックスピーチを聴くというものだった。ヒアリングマラソンを続けて、早1ヶ月。だんだんと英語が耳になれてきたという感じか。

 この一ヶ月に僕にあらわれた変化といえば、以前は、聞こえなかった英単語が聞こえるようになってきた。BBCとかCNNを聞いていても、全部はわかんないけど、どんなニュースを話しているかは、かなりわかるようになった。まだまだ、文節を意識して確実にヒアリングをすることはできないが、ちょっとはマシになったかもしれない。

 思えば、僕は大学受験にヒアリングがあった。だから、高校生のときは3年間ビジネス英会話を聞いていた。まだ、大学にはいってからも、駒場時代の英語のテストはすべてヒアリングだった。てことは、人よりはヒアリング経験があったのに、大学3年生、4年生、修士時代にガッツリとさぼってしまったおかげで、目も当てられない状態になってしまった。

 ところで、Steve Jobsのパブリックスピーチは、見事すぎるほど見事だった。何が見事かっていうと、スピーチがキチンと構造化されているからだ。まず、これからしゃべるのかをキチンと最初に述べて、それからすべてのトピックを丁寧にしゃべっていく。その間に、ちゃんと盛り上げるところは盛り上げ、笑わせるところは笑わせる。

 わかりやすいからといって、決して、レヴェルは下げてはいない。伝えたいことはたとえムズカシイコトバであっても、確実に伝えている。見事だ、見事すぎる、さすがはアップルCEO。「Think different」である。最近、海外のプレゼンテーションの教科書を見る機会があって、ちらちらと眺めていたんだけど、その基本を忠実に守っている。

 そういえば、ICCE2000にでる前に、ちょっと英語のプレゼンテーションの事例を見たんだけど、プレゼンテーションの教材ってあんまりないことに気づかされる。ビジネス英語の教科書とかなら、腐るほどあるけれど、プレゼンに関しては、オプション的に述べているだけであったりすることが多い。まだプレゼンテーションを正面から扱っていても、くそオモシロクない内容であったりすることが多い。
 
 たとえば、英語のプレゼンテーションがうまい人の事例をいくつか取り上げ、それを学習者にヒアリングさせる。で、そこから抽出されるテクニックも少しずつ学べるようにする。で、何人もの事例をマナブにつれて、プレゼンテーションの基本をキチンと学べる教材があったら、それは確実に社会的意味があると思うし、それより何より、現在プレゼンテーションに苦しんでいる多くの学習者を救うことにもなると思う。

 誰かやってくれるんじゃないかな、と思っている。ていうか、やんないんだったら、僕がつくりたい。


2001/01/16 成人式とフルモンティ

 成人式の様子が、今年もまたテレビで公開された。
 毎年、この光景を見るにつけ、「もうやめちゃえばいいのに」と思うのは僕だけではないと思うんだけど、これも「前例」というヤツですか、それとも、呉服業界と写真業界からの圧力からなのか、今年も成人式はやっぱり開かれたわけですね。

 それにしても、ハッキリ言って、どうでもいいんだけど、一言いうならば、成人式でクラッカーを市長にぶつけたり、帰れコールをしたりするのは、本当にセンスがないなーって思っちゃいます。英語で言うならば、So Whatだってーの。日本語でいうなら、だからどうしたってんだってーの。全然オモシロクない。チャイルディッシュです。

 どうせイスに座っていられないのなら、座らなくても結構。だけど、もっとプレイフルにショーをしてくれ。みんなをエンターティンする気持ちを忘れられたら、迷惑きわまりないってーの。

 僕が好きになった映画に「フルモンティ」というヤツがあります。トレインスポッティング系の映画で、主人公は同じ。あらすじは、失業した数人の男たちがお金をかせぐために、フルモンティ(真っ裸)のストリップショーをするって感じですね。

 これは裸になるだけなんだけど、非常にオモシロい。全然下品じゃないし、会話にセンスがあります。まさにプレイフルだ。

 別に成人式でフルモンティになれって言っているわけじゃないですよ。でも、もっとセンスのある騒ぎ方をして、成人式を楽しめばいいんじゃないかなって思います。

※追伸

 今日はいいことがありました。が、なんかまだにわかに信じられないので、この話題はまた今度にさせてください。夢だったらさめないで!


2001/01/19 研究会をやることにした!

 先日、いろいろあって、3月1日までこのサイトの開発をやめることにアタマの中で決定して、エイッって感じで、ホームページにてアナウンスを行ったが、やっぱり、なんか気持ち悪くて、どうも、ウン○をふきのこしたような後味の悪さが残って、やっぱり開発を続行することにした。味はわかんないけど。

 思えば、このサイトを開発してもう6年にもなって、特に日記なんか3年も書いていて、もう日常生活の一部分に組み込まれちゃっているわけで、それを欠いてしまうことは、「クリープのないコーヒー」とかって人はいうんだろう。

 まぁ、そうはいっても、事情は事情で全く変わらないので、暇を見つけて更新したいと思っていて、そらー、スローペースにはなるけれど、たまに見てやってほしいんだけど、まぁ、そんな道楽につきあっている人、あんまりいないか。

 ところで、先日というか、今年はじめに、実家に帰省して、ここぞとばかり僕は、組織科学に急激に惹かれて、ずいぶん本もよんだんだけれど、今度阪大で2月17日に研究会をやることにした。学部生も参加してほしいから、日本語の簡単な文献を選んでみた。

 情報技術を用いて学習コミュニティをどうつくるかってことを、僕は研究していて、たぶん今後も研究していくんだろうけど、その方法のヒントになるようなところってないかなーと思って、組織論に出会っちゃった。主に組織論は、ビジネスの世界で会社組織をどうつくったらいいのかなんて研究している領域で、あんまり教育には関係ないんだけど、僕は松田聖子じゃないけど、ビビビってきた。

 というわけで、このクソ忙しいときに、こんな研究会を企画しちゃって、ハッキリ言って、もう泣きそうなんだけど、そう言っているうちがシアワセってコトは、僕、知ってるんだから。だから、いいんだ。

 今日は文体を変えてみた。


2001/01/20 Computer Supported Commnity of Learners

 このところ、僕は自分の専門性を意識しはじめるようになりました。専門性って言っても、ムズカシイはなしをするつもりは毛頭なくって、要するに、「What can I do now?(オラには何ができるのか?)」ってことを考え始めるようになったってことです。

 今まで自分の専門性については、Ad hocに答えてきました。

 「教育工学を専攻しています」
 「僕の専門は学習科学です」

 だとか、まー、そのときどきに応じて好きなことを言っていたわけです。だけど、それでは自分的にどこか納得しなかった。かといって、CSCL(Computer Supporte Collaborative Learning)っていうのは、どうも一般的じゃないし、ちょっとハバのありすぎるコトバです。で、最終的にたどり着いたのは、以下のような回答。

 僕はコンピュータネットワーク上に学習者のコミュニティをどのように運用、維持、活性化し、それがどのように形成され、どういう効果があるのかを研究しています、なんつって。

 英語でいうならば、Computer Supported Commnity of Learnersってな感じかな。同じCSCLではあるけれど、この方がよりわかりやすいでしょうか。
 きゃー、たいそうなもんだ。で、一応こんな回答をだしたんだけど、よくよく考えてみると、このコミュニティってのがダンダンとわからなくなってきました。

 考えてみると、もともとコミュニティっていう概念は血縁、地縁とかの人間のある集団をあらわしていて、それはそれはリアルで属性原理的なものだったんだけれども、コンピュータネットワークの黎明とともに、その概念が拡張されたんですね。要するに、同じ興味を共有する人がネットワーク上で<出会い>、形成される場をあらわすようになったということです。これはわかりやすい。

 しかし、おい待てよ、とふと立ち止まってみると、このコミュニティたるものが、非常に漠然としたもので、動的であり、否、メンバーが非常に流動的であるが故に、どのように対象化したらよいのかわかんなくなっちゃうんですね。いにしえの文化人類学とかのテキストを見ても、このあたりをどうとらえるかっていうことについては、全然、書いてない。

 このあたりはキチンと文献をあたる必要があって、次回の紀要論文なんかはこのアタリで書こうか、なんて考えています。コミュニティの再定義っていったら、とてつもない仕事みたいになっちゃうかな。

 ところで、このネットワーク上のコミュニティサーヴィスですが、今や誰もが口にすることばになっちゃってるんだけど、これをキチンと形成して、維持していくっていうのは、ものすごくムズカシイです。ムズカシサはどこにあるかっていうと、まずその形成や維持が人手に依存しているってことと、もうひとつはものすごく高い技術が要求されるってことです。人手はかなりイタイですよ。ユーザーからの問い合わせ、コミュニケーションのナヴィゲーション。シャレになっていません。

 また、高い技術といっても、それは青色レーザーを使うとか、そんなことじゃないんですね。そうローテクなんです。ローテクだけれど、人が「使いやすいなー」とか「わかりやすいなー」「いつも使いたいなー」と思っちゃうようなものをつくるのは、たとえば出来あいのCGIとかを単にサーバーに設置しても、なかなかムズカシイのですね。たとえば必要とあらば、DBとかJavaのサーブレットを使ったりして、レスポンスをあげて、インターフェースをととのえ、Playfulなものをつくる必要があります。

 いまや、コンピュータネットワークの世界で「コミュニティ」というコトバは、多くの人々が使うコトバとなってしまいました。大手のポータルなんかは、当然、そうしたコミュニティの維持を行っています。もはやアタリマエになってしまっているけれど、なかなかそれに関する学問的な対象化は遅れているような気がします。

 ネットワーク上のコミュニティの形成と維持

 この命題に対する答えを、モデルはなかなかないですが、少しずつ進めていきたいと思っています。


2001/01/24 CSCL Design 2001 - Project XEON の胎動

 このところ、毎日書類と手続きに追われていますが、そんな中でも、タダでは起きません。Project XEON(ジオン)というプロジェクトを立ち上げることになりました。Project XEONを立ち上げるっていうのは、語弊があるかもしれません。正確にいうと、Project SLATEというプロジェクトが仕切りなおしたのが、XEONなのですね。

 このプロジェクトで我々は、ゲームを利用した協調学習環境をつくることに挑戦します。ゲーム自体は、学習者が数名でグループを組んで、商社を経営するのですね。商社ですから、世界各国を旅してまわって、商品の買い付けを行い、それを適切な価格で売らなければならない。でも、それをするためには経済の知識とか、国際的な常識が必要です。トキには、グループで戦略をたてて、うまく役割を担いつつ意志決定しなければなりません。

 このゲームはWebで提供されます。今回は、プログラマーにデータベースマニア松河くんも加わったので、かなりイケてるゲーム型協調学習環境ができることでしょう。

 なんでゲームなのか?っていうと、そいつは簡単です。現在のCSCL研究ではコンテンツとツールを一緒に提供しなければ、学習がなかなか成立しないっていうのが常識です。でも、「コンテンツ、コンテンツ」ってかっこよくいうけどさー、教科書をWebにしたのはあまりにもオモシロクないしね。
 また、学習研究ではゲームっていうのは、昔からよく採用されているんです。でも、ネットワークを媒介とした協調学習ゲームっていうのは、そうあるわけじゃありません。そこが、このプロジェクトのキーポイントなわけですね。どうだ!

 最近忙しいけれども、こういう研究的な忙しさはいくら忙しくてもいいなーと思ってしまいます。ちなみに、ゲームの名前は「Geography + Trading = GeoTrade(ジオトレード)」といいます。で、最初のGEOをペチッて、プロジェクト名はXEONになりました。

 てなわけで人生は続く。


2001/01/26 静岡にて

 今、静岡センチュリーホテルの25階。ホテルの一室でこの日記を書いている。明日から静岡大学で研究打ち合わせがある。

 せっかく静岡にくるのだと思い、昨日は、前から一度は伺いたいと思っていた掛川の榛原高校にお邪魔した。以前からお世話になっている鈴木先生のご厚意で授業を見せてもらった。メールを使った英語の授業。教師からの指示もある程度は英語で行われる。僕の経験してきたような典型的な英語の授業とはひと味違い、オモシロカッタ。

 最近の鈴木先生は一斉講義を拒否した授業を行っているのだという。
 たとえば、典型的なリーダーの授業ならば、普通は生徒たちに教科書のビニエットを予習させて、授業では答え合わせをするが、鈴木先生はそうしない。授業中に生徒の認知活動が、単なるオコタエアワセになることをさけるためだ。鈴木先生の授業では、ビニエットを授業中に読む。はやく読める子は、ファーザーリーディングが用意されている。
 そして興味深いことに、生徒たちの英語の得点は、典型的な授業を行ったときと、さして変わらないのだという。

 授業見学のあとは、高校生を前にして稚拙ではあったが、プレゼンテーションを行った。お題目は、「大学のカシコイ選び方」。現在の高等教育の変容の様子を伝え、その上でカシコイ選択をしてもらうためのプレゼンテーションだった。まぁ、反省点は多々あるけれど、高校生がオーディエンスというのはハジメテだったので、こちらの方もオモシロカッタ。

 この場を借りて、お忙しいところ時間をさいてくれた鈴木先生に感謝する。ありがとうございました。


2001/01/29 ED tv

 ED tv(エドティーヴィー)という作品をみた。マイナーなコメディ映画である。

 エドという名の甲斐性のない男がいて、彼の生活全てを放映するという究極のドキュメンタリー番組「ED tv」がケーブルテレビではじまる。朝起きてから夜寝るまでを、イエの中に設置された固定カメラ、大勢のカメラクルー、中継車がおう。

 実の兄の恋人を好きになったり、でていったはずの父親が戻ってきたり、売名したい女性が近づいてきたり。彼の日常は直ちに全米に放映され、多くのオーディエンスを魅了するようになる。
 次第に全米の人気者になっていくエド。しかし、それは長くは続かない。次第に彼はプライバシーが気になり始める。彼の家族やまわりの人々までもカメラに追いかけられるようになる。しかし、テレビ局は契約違反をたてにドル箱番組を放映中止にしようとしない。ついにエドはキレてしまい、テレビ局に復讐を決意する。

 あらすじだいたいこんなところだろうか。やりとりされる会話もオモシロイし、カットもリズミカルだから、オモシロク見ることができると思う。

 ところで、ED tvは単なるコメディというだけでなく、マスメディア批判の映画としてもとらえることができる。映画の随所には、マスメディアの傲慢というのか、胡散臭さが何気なく風刺されている場面がある。

 個人的なことで申し訳ないが、僕はあまりマスメディアを信用していない。それとは、とても注意してつきあう必要があると思っている。もちろん、信用することのできるマスメディア人はたくさんいるし、尊敬できる人もたくさんいる。でも、それでも、注意するにこしたことはないと思っている。

 たとえば、どうしても納得がいかないのは、雑誌とかの取材・インタビューである。僕の話を素材として、それを彼の文章のここあそこにちりばめて、記者は原稿を書く。しかし、書いた原稿を出版前に事前にチェックさせてもらえることはほとんどない。最終編集権というらしいが、これだけは勘弁して欲しい。「素材」をどのように料理するかはマスメディア側の特権らしい。それがいわゆる「言論の自由」らしい。

 僕は文章を書く。どこから見ても客観的で現実的に見える文章(たとえばインタビュー記事)というものが、いかに恣意的で政治的で経済的で偏見に満ちているかは、よくわかっているつもりである。
 研究者も研究上必要ならば取材とかインタビューを行うが、それを公開するときには、絶対に取材相手に校正を求める。そこでの同意がなければ、絶対にそれを公開しない。これは研究の倫理というものであり、学会の中にはそれを明文化しているところもある。

 映画の話をしていたのに、最後は思い切り個人的なマスメディア批判になってしまったが、この問題は実は根深いと思う。


2001/01/30 世の中ハヤイ!

 最近、注目されるひとつの本が出版された。「ネットコミュニティ戦略」である。Cool Research のコーナーにも紹介しているので、興味のある方は見ていただきたい。

 この本は、ネットワーク上のコミュニティを構築するためにはどうしたらいいのか、という問いに対して、9つのTenetを提唱している。現在、多くの企業が自社のサイトにコミュニティサービスを実装しているが、これまでその構築ノウハウに関する書籍はなかった。この本で筆者は実際のいくつかのサイトを紹介しながら、それを事例として論を進めている。非常に参考になる。

 ところで、最近、僕には気にかかることがある。
 それは、何かっていうと、世の中の速さについてだ。半分IT系の研究しているから、それは余計に感じられるのかもしれない。研究柄、IT系の人々とも話したりしなければならないので、僕自身努力はしているつもりだが、それでもアタラシイ技術、世の中ではじまったアタラシイサーヴィスについていくのは、ものすごく辛いし、骨がおれる。もちろん、残っていく技術・サーヴィスは、その中でもごくわずかではあるが、それでも、そうしたものを知っているのと、知らないのとでは、大きく研究成果に影響する。

 実は、我がドクター論文は、学習コミュニティの維持、形成について、いくつかの事例を用いながら書こうと思っていた。まぁ、ドクター論文を執筆できるのは数年後だから、とりあえず、業績を積もうと思っていたのだけれども、なんと同じような視点でもう本がでてしまった。
 今回の本にでているのは、学習コミュニティではないし、研究的な視点から見るとデータ不足で説得力にかけることは事実であるものの、それでも、かなりイタイ。

 あー世の中速すぎる、どないしよ?


 NAKAHARA,Jun
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