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2000/11/01 記憶 テレビではおなじみの「世にも奇妙な物語」が11月3日より映画として公開されるという。僕はホラー系はとことん苦手。というのは、ホラー映画を見ると、その映画の怪物らしきものがかならず絶対に夢にでてきて、僕のカルピス風味の「夢世界」を血液風味にしたり、リンパ液風味にしたりするからだ。しかし、ホラー系にヘタレな僕でも、実は「世にも奇妙な物語」は好きだったりする。 「世にも奇妙な物語」で、僕が一番好きなお話は、小堺かずき演ずる「記憶を売る男」のハナシだ。お金に困った男が、ヘンチクリンな研究所で、自分の記憶を売って借金を返す。次第に彼の記憶は失われていき、最後は、別れた妻と子どもの記憶だけになってしまう。ところが、突然、子どもが重病になり、手術のお金が必要になる。男は、妻と子どもの記憶を売って、子どもの治療費にあてる、というのが、このハナシのプロットである。研究所の研究員は、最後に男にいう。
このセリフが、とてもいい。「アタタタターッ」と僕の言語野を刺激する、何ともいえないことばだ。 記憶。 僕らは自分の存在を絶対だと思っている節がある。「我思う、故に我あり」というデカルトの徹底的な懐疑すらも、自分の存在の<不確からしさ>までには及ばなかったように。 しかし、自分の存在は、過去の出来事や、その出来事のシークエンス、そして、出来事の中の他者の存在によって、はじめて定位される。しかし、そこで定位される自己は、決して「静的な自己」ではない。定位された自己像は、常に変容する可能性をもっている。
そんな懐疑をもってしまったのなら、もう一度、記憶の中の出来事をたぐり寄せてみると、いいかもしれない。
2000/11/02 マルチメディアデザイン論 先日、NHKエデュケーショナルの宇治橋さんにお逢いしたときに、ハナシにでてきた本に「マルチメディアデザイン論」という本があった。「マルチメディアデザイン論」は「マルチメディア人体」というCD-ROMタイトルを制作していく過程を、制作者の視点、教育工学研究者の視点という2つの視点から綴った本だ。 制作者の視点を担当なさったのは、当時、NHKエンタープライズ21でプロデューサーをなさっていた菊江氏。教育工学研究者の視点からの執筆を行ったのは、当時、ジョージア大学で研究員をなさっていた飯吉氏である。 この本の初版は1996年。僕が、はじめてこの本を読んだのは、学部時代の頃であった。学部時代、佐伯先生のゼミで「コンピュータと教育」という授業があって、その課題に「コンピュータソフトウェアの評価を行う」というのがあった。で、そのときの参考図書にこの本が指定されていたように思う。 当時の僕は右も左もわからぬ「ペーペーなんつって学生」で、教育工学なんて全然勉強していなかったから、「評価なんて言われても、奥さん、ねーっ」という感じだったが、この本にかかれてあるような「メディア制作の過程」には大変あこがれをもっていた。 理論的な研究も、それはそれでオモシロかったんだけど、学部時代の僕はやはり、「モノ=メディア」制作の過程に自分自身参加してみたくてシカタがなかった。 「ツールやコンテンツを、ある理論枠組みに照らして評論するだけでなく、そうしたツールやコンテンツを自らつくってみたい」と切に願っていた。同時に、「どうやったら、モノができるのかいな?」とか「どんなスキルが必要なのかいな?」と悩んでいたりもした。
今日、最近デフラグ化が激しい「マイ書棚」の奥から数年ぶりにこの本を発見した。非常に懐かしさを感じるのと同時に、一瞬、困惑した。 なぜ、僕は困惑したのか? この本の初版は1996年であるから、中に書いてある技術的なトレンドは、もはや過去の遺産のように感じたけれど、問題は、そんなことじゃなくって、マルチメディア人体の開発チームが、<キチン>と開発・評価の手順を踏んでいることであった。 「マルチメディア人体」は5年ごしのプロジェクトであるらしいので、時間的かつ金銭的な余裕もあったのであろうが、それにしても、ここまで<キチン>と学習コンテンツを開発した例というのを、少なくとも僕が大学院にはいってからというもの、僕は知らない。 大学院にはいってからというもの、及ばずながら、僕もいろいろな学習プロジェクトに参加させていただいたし、自らディレクションを何度か行ってきた。また、他の人のプロジェクトにおける「モノの制作過程」も、何度か見せていただく機会に恵まれた。 しかし、少なくとも自分に限定して反省するならば、僕は時間的、金銭的問題などの各種の<制約>の前に、<キチン>と「モノ」をつくり、<キチン>と評価する<研究する者としての謙虚さと真摯さ>を失いつつあったようにも思う。 ざっと論文をながめ、ざっとプロポーザルをあげて、ざっと評価する。メディアの世界は日進月歩であるし、どうしても時間的に余裕がないことが多いので、やむをえずそうしているところもあるのであるが、そうした<開発・評価サイクル>に僕は毒されすぎていたのではないだろうか。 もちろん、そうはいっても、<キチン>と研究することを今まで自分に言い聞かせてきたことは事実だ。<評価なしの開発>や、<コンセプトなしの開発>を僕自身が積極的に行おうとしたことは一度もないと断言できる。しかし、それを<キチン>としていたのか、と問われれば、いささか心許ない。 菊江氏・飯吉氏の<謙虚で真摯なものづくり>は、日進月歩するこの領域において、まだまだ新しい。 大いに反省した一日だった。
2000/11/04 ハイパーリンク!、ハンドヘルド! - つまらん入試をぶっとばせ! 先日、本屋にいって、例のごとくプラプラ歩きをしていたら、大学入試の参考書コーナーにたどり着いた。僕がこうした参考書を使っていたのが、今から7年前。おもわず、懐かしくなってしまって、昔使っていた「英文解釈教室」とか「最強の古文」とかを開いてしまった。 ところで、思い出してみると、僕は「参考書キング」だった。たぶん、全国の高校生の中で僕ほど多くの参考書に目を通している人間は他にいないと思う。 僕の勉強法はこうだった。たとえば、英作文が苦手だとする。そしたら、英作文に関する参考書を10冊ほどごっそりと買ってくる。受験コーナーにはだいたい「わたしの勉強法」とかいう成功話を納めた書物があるので、それを参考にして参考書を選べばよい。 ともかく参考書を10冊ほど買ってきたら、まず、それらをすべて流し読みする。ざっとでいい。問題なんかはとかなくてよい。赤ペンをもって、今まで知らなかったこと、気になったことに赤をつけながら、約一週間ほどでそれをすべて流し読む。そうすると、赤が多い参考書とそうでない参考書が自ずとでてくる。 情報が集約されたメイン参考書は、みるみるうちに、余白がほとんどないほど、情報が詰まっていく。わからない問題、新しく知った事実があるたびに、そこには情報が詰まっていくのだ。メイン参考書一冊ならば、どこにでも持っていける。入試がはじまる直前まで、それだけ見ていればいいのだ。 今から考えてみると、僕の勉強法というのは、広範に散らばっている情報をハンドヘルド化することに他ならない。また、情報の出典も同時にしるしていくことにもなるので、ハイパーリンクをつくっていくようなものだ。その当時は、何も思わなかったけれど、実は当時の自分がやっていたこと、というのは、膨大な受験知識をハイパーリンク化して、ハンドヘルド化することだったのだ。 なかなか、すばらしい勉強法だと思うのだが、いかがだろうか。
2000/11/06 近況 今日は朝から現在(深夜2時)までずっとコンピュータに向かっている。 最近、いくつかまとめて本を読んだ。「岩井俊司、その仕事と周辺」「クリエーターズスタイル」「子どものことを子どもに聞く」。前者二つは、デザイン系の書籍。岩井俊司の本は、CSCLのインタフェース開発を考える上で役に立ちそうだ。クリエーターズスタイルは、数名のクリエーターの仕事場の空間配置などを紹介する本で、教室の学習環境を考える際にいい参考書になりそう。「子どものことを子どもに聞く」は、筆者が自分の子どもを対象に行った8年間のインタビュー記録。3歳から10歳までの子どもの声が収録されている。
2000/11/07 子どもの声 昨日の日記で「子どものことを子どもにきく(杉山亮著、新潮文庫)」という本を紹介した。この本、とてもよい本なので、今日は、もうちょっと詳しく紹介しようと思う。 著者の杉山氏はいう。
てなわけで、彼は8年間、自分の子どもが3歳から10歳になるまで、インタビューを行う訳なんだけど、これが非常にオモシロイ。発達の過程が如実に見えるのだ。 インタビュは笑いなくしては読めないんだけど、中には教育学的に示唆にとむ会話もある。僕は「9歳のたかしさん、教科書を語る」の章が一番面白かった。以下、引用してみよう。
なるほど。月刊教科書とはオモシロイ。design plexみたいなカッコイイデザインの教科書が毎月送られてくるだけで、プレイフルな気分になってしまうではないか。 それにしても、この本、オモシロイなぁ。 子どもへのインタビューって、ふつうの研究者は、データの信頼性がないとか言って、嫌がるんだけど、一番ナマナマしいし、意外でオモシロイんじゃないか。うちの講座の実験実習で、学部生とかの課題とかにやればいいのに・・・中身のない自己紹介ホームページなんてつくるのやめてさ。
2000/11/08 杉本さんのこと 僕の研究仲間の一人である杉本さんが、おうちの事情で、今月いっぱいで大阪を離れ、故郷に戻り、実家の家業をつぐことになった。この話を彼本人から聞いたのは、昨日のこと。突然のことだったので、非常にショックを受けた。 今生の別れではないにしても、今までのように研究室に行ったら、開発室のテーブルで新聞を広げながらカップラーメンを食っている彼を見ることはできなくなる。そう思ったら、急に寂しくなって、しんみりとしてしまった。杉本さんと一緒に暮らした3年間の研究室生活の様々な光景が、僕の心の中に浮かんできた。 杉本さんと僕は同じ年に大阪にきた。杉本さんは富山大学で修士課程を卒業し、大阪大学にやってきた。僕は、学部を終えて大阪にやってきた。当時、うちの研究室の院生は大阪大学内部からの進学がほぼ100%だった。僕と杉本さんは明らかな<外人>だった。当時の僕らは自分たちのことを「外人部隊」と呼んでおり、なんかヘンチクリンな連帯感があった。しばらくすると、杉本さんは僕にサーバー管理やネットワークのことを教えてくれるようになった。まさに認知的徒弟制を地でいくような感じだった。彼から教えてもらった当時の知識、あるいは、そうしたテクノロジーを勉強していくためのコツみたいなものは、今の僕にとって、ものすごく貴重な財産であったりする。 彼とはずいぶん議論もしたし、世間話もしたし、憤りもしたし、笑いもした。一時期、僕らの研究生活が<うーん、ちょっと大変だべさー状態>になったときも、協同でモノゴトに取り組み、何とかかんとかこれまでやってきた。僕の研究生活の隣には、いつも杉本さんがいて、時に「えー、それオモロクないんちゃう」とか「うほうほ」とか「すみません」とか言っていた。 杉本さんは実家に帰るが、研究をやめるわけではないという。尊敬できる先輩の一人として、彼には研究を続けていただきたいと心から思うし、これからも一緒に仕事をしていきたい、と僕自身は切に願う。 だから、さよならなんかじゃない。
2000/11/10 ベイベー 今日ももうこんな時間か... ところで、僕は最近気になっているタレントがいる。及川ミツヒロというタレントなんだけど、知っているかな? ファンのことを「○○ベイベー」とよんでしまう王子様だ。 まだまだやることがあるが、今日は帰ろう。隣で同じ研究室の留学生であるウィーさんが「中原ベイベー、どした?」とか言っているけど、まぁ、いいや。
2000/11/11 血は争えない! 昨日は、東京に住むチチガタの叔父、叔母が大阪に来たので、観光案内をしていた。大阪をほとんど知らない僕が、大阪を案内するというのは、かなり無理があるんだけど、何とか大役をつとめることができた。 ところで、叔父と一緒にいて、ひとつ気がついたことがあった。オヤジと僕と叔父は、あるひとつの共通する性向があるのだ。ご飯だ。 なんだかなー、血は争えない。
2000/11/12 How can research change design ? 雑誌「AXIS」の最新刊の特集は、なかなか面白かった。お題は「How can research change design ?(リサーチはデザインをどのように変革できるか?)」である。携帯電話のデザインを「無」から「有」に変えたという松下のリサーチ事例、多摩美術大学情報デザイン学科の事例が掲載されていた。 思うに、AXISがあげた問い「How can research change design ?」はデザイナーのみならず、研究する者にとってはかなり痛い問いである。この領域の多くの研究者は、それを目指した研究を志向しているものと思われるが、これがなかなかムズカシイのだ。別に「design」のところを、「TV program」に変えても「CSCL」に変えてもよい。「How can research change TV program」と問われて「yes」と自信をもって、答えることのできる方法論と事例をもったヒトは、そういないと思われる。 見えない地平とモデル無き模索。
2000/11/13 楽しき研究生活 近況報告。 CNNで英語のリスニング練習をしながら、国際会議のプレゼンテーションとスクリプトをつくりつつ、いよいよ本格化してきた研究プロジェクトのプロポーザルとWebページをつくり、いくつかの会議に参加し意見を述べて、飲み会のオーガナイズをする。これで終わりかと思ったら、アンケートの集計データベースづくりと別プロジェクトのWebインタフェースのデバック。 忙しいのが好きな僕は、これだけで、なんか楽しーなってくる。 Project SLATEの仕様がだんだんと決まってきた。前にも言ったけれど、ワークショップみたいな対面状況の学習者がコミュニケーションしながら、ゲームを営みつつ、学ぶことのできる環境を構築するプロジェクトだ。予算のメドがたたないことは不安ではあるが、つくりこむコンテンツとシステムの大凡の「絵」は決まった。あとは、その「絵」を「仕様レベル」まで落として、プレジデントペーパを作成し予算獲得をするだけだ。実際の開発は、来月12月からはじまる。 あー、なんて楽しいんだろう、我が研究生活。
2000/11/14 なぜ日本人は勉強しない? 今日、講座でシンガポールからの留学生ウィーさんと話していたら、ひょんなことから日本の大学の話になった。彼曰く、
あんまりしつこいので、「高等教育のアクセスは年々あがっていて、いまや50%に近くなってきている、つまり、本来大学にくるような層以外の層までもが大学にくるのだ。だから、大学進学率が20%のシンガポールとは違う。彼らはそもそもモティベーションが高いが、日本の学生は必ずしもそう言えない」なんていうそこらへんのオバハンでも思いつきそうな「適当なこと」を「イカサマ英語」で吠えていたが、どうにも彼は納得しない。
彼の問いは続く。 確かに、サポートシステムが十分なのか/そうでないのか、と聞かれると、日本の大学にしか在籍したことのない僕としては、かなり心許ない。また、僕の先の説明は、いわゆる「学生の動機」に「学生が勉強しないこと」の原因を帰属してしまっているが、ウィーさんの説明は「環境(サポートシステム)」に原因帰属している点で全く違う。 日本の大学の学生サポートシステムは、他の国とは違うんだろうか? またそれは不十分なのだろうか?正直言って、よくわからない。
2000/11/15 MBA MBAとは、Master of Business Administration のこと。いわずとも知れた「経営学修士」のことである。最近、僕はMBA関係の本をよんでいる。地震がきたら一発で崩れ去るような、もはや<本棚>と呼べぬ本棚には、MBAの本が十数冊積み重ねられている。 MBAの本を読んでいるからといって、別にビジネスに興味をもっているわけでもないし、マーケティングに心を砕いているわけでもない。僕が注目しているのは、MBAの学習システムについてである。 一般にMBAの学習システムといえば、ケースメソッドとよばれる事例による学習が想起される。ある意志決定を迫られている企業の事例を分析し、そのソリューションを協同でディスカッションする。まさにコラボラティヴラーニングの形態が採用されることが多い。 MBAのケースメソッドは、ハーヴァード大学で形作られたと言われている。ハーヴァード大学では、MBAの教授方法を決定する際、一斉講義形式の知識伝達型授業を否定し、ロースクールやメディカルスクールなどのプロフェッショナルスクールで採用されているケースメソッドを採用することにした。ケースとは、限定的な文脈で特殊な状況、否、物語そのものである。特殊で限定的な物語を数多く読み込み、分析し、ソリューションを考えることで、一般的なゆるやかな原則や原理を学ばせようとしたのである。 なるほど、おもしろい。教育環境や学習環境をデザインすることを志す大学院生も、同じ方法論で学ぶことはできないのだろうか。ある限定的で特殊な状況の中に、ある学習者がいて、学習を志している。この学習者にたいするソリューションの提供が、学習環境デザイナーの責務だとするならば、彼を育成するための教育には、どんな方法が用いられるべきだろうか。つまりは、何を教え、何の知識を獲得すれば、学習の場を組織できるプロフェッショナルになれるのだろうか。前にエッセイの中でこの種の問題を考えたことがあったけれど、こうしてあらためて文にしてみると、またまた悩んでしまう。 Master of Learning designってかっこよくない?
2000/11/19 ドンヅマリ 今日は思い出したくもないほど、いろいろなことをやった。それをここに書き出すことで、もはやアタマの片隅においやられている今日の記憶をあらためて想起したくはないので、それだけはさけておく...と言ってしまっては日記にならないので、やっぱり書くか。 ICCE2000に参加する準備は整った。あとは、野となれ山となれだ。もう怖いものはない。 今日は、なんかすっきりしない日だ。
2000/11/20 - 2000/11/24 台湾記 今、中正空港の搭乗待合所にいる。台北には11月20日にきた。今回の旅行の目的は、はじめての国際学会での発表にあった。 あらためてこの5日間を振り返ってみると、なかなか趣深い。いろいろなことを学んだし、反省した5日間であったけれど、今となっては、どうも昔のことのようにしか思えない。反省は<過去>にあり、課題は<これから>にある。
11月20日、台北にきた。行きも帰りもキャセイパシフィックの飛行機。シンガポールエアラインとかNorthwestほどではないと思うけれど、なかなか快適な空の旅だった。今回の旅行を一緒にする西森さんと、今週一週間の予定をたてる。どこで料理を食べようか?。主たる関心は、そこにあり、これから迎えるであろう英語でのプレゼンテーションにはない。 台北についた。ホテルは、園山大飯店という超高級ホテルだ。なぜ、僕のような貧乏学生がそうしたホテルにとまるかというと、簡単なことで、ここで学会が行われるから。学会からは、ここのホテルにとまることを促されている。まぁ、学会がここで行われる以上、他のホテルに泊まるのは、かなり面倒なので、ここを選んだ。ちなみに、僕らの部屋は窓のない部屋だったが・・・。 20日は、台北市内を観光する。光華商場という「台北の秋葉原」をたずねて、まぁ、買い物をした。こちらでは、まだまだコンピュータは高価なものらしく、AT互換機を自作するのがアタリマエみたいだ。特にノートブックは、ほとんどガラス張りの陳列ケースにはいっていて、相当高価なお品であることがうかがわれる。 21日、学会のチュートリアルを抜けて、故宮美術館を見学。ここには、中国の<お宝>という<お宝>が相当眠っていると聞く。僕は特に工芸品に興味をもった。ピーナッツの種だか、柿の種だか知らないけれど、とにかく小さな<種>に信じられないような彫刻を施したり、「これ、どうやってつくった?」というモノがたくさんあった。せっかちな僕には、たぶん無理。ていうか、無理。
22日、ようやく僕のプレゼンテーションの日。Collaborative Learningのセッションだった。プレゼンテーションは自分的には80点。ただし、そのあとの質問で1つの質問をマッタク違った風に解釈して、意味不明なことを言っていた。ていうか、これは日本語で聞かれても、かなり焦る質問だったと思う。質疑応答は50点。これは今後の課題だろう。
23日、体調を崩す。朝は8時30分におきてスカーダマリアのキーノートスピーチへ。スカーダマリアは、早口でまくしたてるしゃべり方で、ちょっと泣きそうになる。頑張って聞いていたが、最初の30分くらいで集中力を失ってしまい、あとはせっかくのスピーチが念仏状態になってしまった。 24日、朝はキーノートスピーチへ。状況論批判のスピーチだったけれど、意味不明。ていうか、これは僕の英語聞き取りのせいではない。Proceedingsを見ても、言いたいことがわかんない。まぁ、いい、世界は広い。 こうして僕らの「はじめての国際学会」は終わった。 |