The Long & Winding Road - 2000/08


2000/08/04 山本ジョージ的研究生活

 このところ、演歌歌手みたいに、日本を行脚する生活になっていて、全く日記が書けませんでした。ていうか、「山本ジョージ」状態というのかな、こういうのを。正しくいうと、日記がかけないってのはウソで、毎日の生活を「やりすごす」だけで書くネタをさがすことができないのですね。一日のタスクが終わり、「はー」と息をつく頃になると、既にもう眠たいっていうか、思考がまわりません。

 Project Scioは、今が一番ツライところだと思います。とりあえず、ロボットをテーマとしたネットワーク学習環境をつくることにはなったものの、それに必要なインタフェースやカリキュラムがこれからです。これから、簡単な実験をしようと思います。

 そういえば、勝手に命名しちゃったけれど、Project OKOMEというのも取り組むことになりました。当面は、学習動画データベースのブラウザのインタフェース開発でしょうか。こちらの方は、先日、黒上先生と飲みながら(何を?)、あーでもないこーでもないと議論をしておりました。
 
 大阪大学の研究室の有志によるProject BASQUIATは、現在、追い込み作業中です。僕の担当は、Webなのですが、時間を見つけては泣きながらつくっています。もはや、泣き言。

 最近はこんなところでしょうか。
 でも、まぁ、忙しい生活ですが、そうはいっても、いろいろ考えているところはあるのですよ。忘れないように、ていうか、自分のための備忘録として以下に書いておきます。

CSCLの新しいインタフェース

 これまでCSCLといえば、「ソフトウェアでの議論や討論」だったのだけれども、そろそろブレークスルーがおきそうな気がします。PalmやケイタイなどのPDA端末や、センサー等を用いたデバイスを用いたCSCLですね。直感的で操作的なインタフェースを用いたCSCLが、きっとブレークするような気がします、もちろん、僕のアタマの中だけで。

 

エホンとストーリーテリング

 エホンをつくるというか、お話作りを中心にした学習の場づくりが、何かオモシロソウな気がしています。協同的なエホンづくりを支援するCSCLっていうのかね。議論とかするんじゃなくて、互いのイマジネーションをふくらませるというのか。このアイデアは、最近、別件でエホン関係の美術館に行ったことがきっかけになっていますが・・・。めちゃ、プライベート。

 

トイ研究

 Project Scioのロボットじゃないんだけれど、トイ(おもちゃ)研究ってオモシロそうな気がします。ていうのはね、学習をうたっているわけではないけれど、ものすごく学習に役立ちそうなトイがあるわけですよ。トイは、子供向けに作られているわけで、インタフェースとしても、ものすごく見習うべきところが多い。

 うーん、なんかキワモノ系になってきたな、我が研究も。
 まぁ、いいか。発想は自由なんだから。


2000/08/06 Tube Tails

 チューブテイルズというマイナー映画を見ました。「ロンドンの地下鉄=チューブ」を舞台に9本のシナリオがつまったオムニバス映画です。この映画は、シナリオを一般から募集してつくられていて、それぞれのシナリオは別々の監督の手によって、作成されているんですね。監督には、ジュード・ロウだとかユアン・マクレガーだとかが参加しています。個人的な感想を言えば、映画がウリにしていた「地下鉄の疾走感」をだすことには失敗しているような気がしますが、なかなかオモシロかった。トレインスポッティングとかラン・ローラ・ランが好きな人にはお勧めでしょう。

 そういえば、地下鉄っていえばね、よくできたハイパー小説を、先日、ある人から教えてもらいました。いかにも僕好みなんですね。

  • 99人の最終電車
  •  まさにNarrative。Narrative万歳!


    2000/08/09 パッケージ化の欲望

     最近、いろんな研究プロジェクトに関わることが多くなって、学習材やシステムの開発のことを考えています。そういうときにいつも思うことがあるんだけど、それは「パッケージ化の欲望」なのです。とかく、僕らは学習材やシステムの開発をするときに、そうしたものを「パッケージ化」したがるんです。要するに、必要なものを何でもかんでも機能として埋め込んだり、学習者の学習のフローを想定して、想定されたフローのもとに教材をつくってしまったりするんですね。要するに、それで自己完結してような教材やシステム、これを「コンサマトリーシステム」と僕は呼んでいますが、そうした閉じられた<世界>をもつシステムをつくってしまいがちなのです。

     パッケージ化の欲望

     なぜこんなにまでパッケージに開発者やデザインするヒトが惹かれるかっていうと、それには、いろいろ理由があるんですね。まず第一に考えられる理由としては、「楽だから」っていうのがあります。つまり、一回でもコンテンツを開発したことのあるヒトなら、絶対にわかると思うんですが、ある程度、ユーザーの振る舞いがフローとしてアタマの中に立ち現れてこないと、開発なんてできないんですよ。

     また、機能をどんどん放り込んだ方が、不安じゃないってのもあります。もし、機能がなくてユーザーが路頭に迷ったり、学習そのものが立ちゆかなくなったりするのは、開発者として一番避けたいことなのです。だから、いろんな機能をガシガシと実装したり、懇切丁寧にナヴィゲーションしてしまったりするわけですね。で、学習は、狭い世界に閉じられたものになってしまう。学習者の自由度は、ものすごい低いってなことになっちゃいます。このあたりのことは、一度開発やデザインを経験してみると、絶対にわかってもらえると思います。逆に、やったことのないヒトには絶対にわかりません。

     でも、僕はパッケージ化が悪いって言っているわけじゃないんです。ある程度は、学習の制約として、それは必要なことなんですが、あまりに行きすぎると、オモシロクない学習、つまりアンチplayfulな学習になっちゃうってことです。
     実は、阪大を中心に僕らがやっているBASQUIATプロジェクトっていうのがあるのですが、そのためのWebコースウェアをつくりました。これは議論ソフトウェアrTableでの学習にコンテキストを与えるためのコースウェアなんですが、なるべく学習が閉じないようにデザインしたつもりです。パッケージでありながら、アンパッケージなコンテンツ作成をめざしました。まぁ、ヘボイけどね。

     パッケージ化の欲望

     実は、この欲望はそれほど簡単な問題ではなくて、僕の予想によれば、「近代」という時代の教育方法や教育評価の問題とくっついているのですが、そうした難しい問題は、今度エッセイの方でゆっくりとすることにしましょう。

     あなたのシステム、閉じていませんか?


    2000/08/10 MELLプロジェクト

     長野県松本市でMELLプロジェクトの集中合宿がひらかれた。Media Expression, Literacy Leaningプロジェクト、通称MELLプロジェクトは、メディアリテラシーを考えるネットワーク型の組織である。山内さんのお誘いで、メディアリテラシーについて、あんまりというか、ほとんどわかっていないけど、参加することができた。長野県美須々が丘高校の生徒さんや、甲南女子大学の上田先生も参加していて、とっても知的でプレイフルな数日間を過ごすことができた。

     最近の僕は、一日のタスクの中で、研究というよりも作業の比重が多くなったため、こういう会に参加することは、とても貴重なことだ。プロジェクトの間中、いろんな「よしなしごと=アイデア」を思いつくままに、コンピュータやZAURUSに入力していたら、ファイルの大きさが50KBにもなってしまった。テキストで50Kっていうのは、相当な量だ。これから、この50KBをサカナに何とかかんとか、うんうんうなりながら、モノを考えようと思う。

     幸せって、こういうことだ。


    2000/08/12 Risky, Crazy and Sexy

     先日のMELLプロジェクトのミーティングで、甲南女子大学の上田先生にお会いする機会があって、その場で「Risky, Crazy and Sexy」というコトバがでた。上田先生によると、「学習っていうのは、Playful(プレイフル)でなければならないのだという。そして、「Playful(プレイフル)」であるとはどういうことかっていうと、「Risky, Crazy and Sexy」ってことになるらしい。要するに、「ちょっと危険でクレージーで、それでいて可愛らしくて、学習者を思わず魅了しちゃう」ってことだ。

     上田先生自身は、「Multimedia Unpluged」というプロジェクトで、いったんデジタルメディアを離れて、ワークショップの手法を用いてそうしたプレイフルな場をつくりだすことに尽力されている。

     確かに僕らはどうも「学習する場」や「学習システム」をつくりだすっていう場合に、余計な理論をこねくりまわして、過度にムズカシイハナシにしたがる傾向がある。この背後には、「学び」と「遊び」を二分法的にわけてしまう発想が見え隠れする。

     なるほど、Risky, Crazy and Sexyか・・・。
     研究者もかくあるべしだと僕は思うのだが、どうだろう。
     Sexyは余計かな?


      

    2000/08/16 エデュケとマーケの幸せな出会い

     忙しい。最近、アホほど忙しい。去年も同じコトを言っていたが、その比じゃない。アホのレベルが違う。IT革命(アイティカクメイ)」を「It革命(イットカクメイ)」と言ったという「どこぞの首相」ほどじゃないけど、やっぱりアホほど忙しい。

     でも、皮肉なことにそんなときに、アイデアは浮かんでくる。実は一ヶ月くらい前からアタタめている「新しいCSCL」のアイデアがあって、今の僕はそれを実現したくて仕方がない。研究費の工面も問題だが、そんなことは、まぁ、何とかなると思っている。否、何とかするのだ、するしかないのだ。

     でも、これを動かすとなると、7つめの研究プロジェクトに着手することになってしまう。今でもアホほど忙しいのに、そのアホさ加減が倍増だ。そういえば、先日、懇意にしていただいているある研究者の方と話していて、こんな話がでた。

     かけもちするプロジェクトが3を超えると、もうパニックになる。でも、若い頃はそれでもやれる!

     このコトバにかけるしかない。死んでもやりたいのは、他ならぬ自分なのだから、「死にかけ人形」状態になってもシカタがないだろう。たとえ、ZAURUSの予定表が真っ赤になって、それ以上「空白」の日がなくなったとしても、それでも僕はやりたい。やりたいものはやるしかないのだ(自己暗示)。

     ところで、最近、よく思っていることで、今度ヒマを見つけてエッセイに書こうと思っていることに、「エデュケーション」と「マーケット」の問題がある。要するに、「教育」と「ビジネス」の話だ。「ビジネス=お金がからむ」と聞くと、眉をひそめる方もいるかもしれないが、最近、方々を飛び回りいろいろな方にお会いして研究生活を過ごしていると、どうも、「ビジネスとしての教育」の動きが、最近、加速しているように思う。いまだ水面化の動きだから、まだまだ人口に膾炙するまでは時間がかかると思うけれど、それでも、この趨勢は変わらないように思う。

     ところで、教育が市場化することに対する懸念は、一部の教育学者が問題を指摘している。教育学の領域では、ずいぶんと前から「教育と市場化」は重要な研究領域なハズで、非常に説得力ある議論もなされてきている。しかし、これが不思議と伝わっていない。あるいは、ハッキリ言って、無視されている。

     情報とかメディアの研究領域では、あまりこの種の議論、たとえば、教育学や社会学では古典的な再生産の議論なんかが話題に上ることはない。「市場」とか「ビジネス」とかの話がでてきたら、当然考えなければならないハズの「教育の平等」や「教育の均等」や「再生産」の話がすべてスットバされている。非常に問題だと僕自身は思うし、これには僕自身、ものすごくフラストレーションがある。

     エデュケとマーケの出会い。彼らはきっと、僕が望もうと望まないとにかかわらず、遠くない将来に出会うだろう。それが幸せな出会いか、不幸な出会いは今の僕にはわからないけれど、少なくともこれだけは言える。

     エデュケやマーケという営為そのものを持続させるためでもなく、エデュケとマーケは他ならぬ「学習者」にとって幸せな出会いをするべきだ。大切なのは、学習者であって、それ以上でも、以下でもない。


    2000/08/18 メタフィジックス

     メタフィジックス(Metaphysics:形而上学)というコトバを広辞苑で引くと、こんな記述がある。

    現象を超越し、またはその背後に在るものの真の本質、存在の根本原理、絶対存在を純粋思惟により或いは直観によって探究しようとする学問。

     うーん、難しすぎる。

     例のごとく敢えて、哲学をやっている人に殺されるそうなパラフレーズを行うとすると、形而上学とは、「どこかにホントウの、ホンシツテキな、シンの何かがあるんじゃないか、という希望を前提として、それを明らかにしよう、見てみたい」と願う学問のことをいう。

     今日、研究室で久しぶりにプラプラとモノを考えていたら、ある女の子から電話がきて、恋愛相談になった。あらゆる相談というものがそうであるように、恋愛相談というのも結構くせ者で、だいたいの場合、当人の意志は、相談をする前に決まっている。僕は、時々茶々を入れながらも、当人の<意志>を聞いていた。

     そのときにふと彼女がよく口にしたコトバは以下のようなものだった。

     「ホントウの彼は・・・・」
     「ホンシツテキに彼の気持ちは・・・・やんなー」

     僕は、「うーん、メタフィジックス的だ」なんて思って感心して聞いていたけど、そんなことを僕がとりとめもなく考えていたことを彼女が知ったら、どうせ怒るだろうから、ここだけのハナシにしておく。

     彼女に対して僕がなしえるアドバイスは、「ホントウの」だとか「ホンシツテキ」だとか「シンの」だとかいうコトバを自分が吐くようになったら、注意しろってことだ。多くの場合、「ホントウ」とか「ホンシツテキ」とか「シンの」というコトバは、「自分が思うところによれば」というコトバに置き換えたとしても意味が通じるんだな。

     おおよそ恋愛に限らず、人のなせる営みには、「ホントウ」も「ホンシツテキ」も「シン」もない。


    2000/08/19 Project Slate

     CSCL Design 2001、アタラシイCSCLプロジェクトを数名のコアメンバーとともに旗揚げした。名付けて、Project Slate。PDA端末によるCSCL環境の構築をめざす一年間の期限付きプロジェクトだ。Slate(スレイト)とは「石版」のことであり、PDA端末のことを俗語でこう言うらしい。

     まだ、研究計画も研究内容も決まっていない「できたてホヤホヤ、びちぐそうんこ状態」のプロジェクトだが、これから少しずつこのプロジェクトにカタチを与えようと思う。カタチをつくり、そのカタチを看取っていくのは、僕らだ。

     思うに、一般にCSCLでは、コミュニケーションはすべてコンピュータ上で行われるものだとされてきた。しかし、コミュニケーションは何もコンピュータ上で行われなくてもいいはずだ。人々の対面状況下におけるコミュニケーションを支援するコンピュータのあり方って、どんなものがあるのだろう。僕の研究仮説は、ここからはじまった。

     続に、CSCW研究においては、こうした研究領域を「Context - Awareness」とか「Community - Awareness」とか言うらしい。従来にも、こうした研究はMITのMediaLab.を中心に行われてきた経緯がある。しかし、CSCLの研究では、この領域に本格的に取り組んでいるものは、思いの外少ない。Project Slateはここに注目する。

     この一年で僕らに何ができるだろう。そして、どんな「アタラシイ学習のカタチ」が生まれるだろう。そんなことを考える夜に時間の概念はない。


    2000/08/21 歌舞伎町のこと

     僕は昔、歌舞伎町で働いていたことがある。「働いた」って言っても、大学の学部時代、飲み屋で少しだけバイトをしていただけだったが、ホールからはじまりバーテンの見習いみたいなこともした。

     オチャケを飲みにやってきた男と女が、互いがトイレに離れたすきに、「相手に強い酒をだして」と我々スタッフに注文する光景も随分と経験した。そんなときは、「おいおい、それはやりすぎだろ!」というくらい強い酒を、今、トイレから帰ってきたばかりの彼/彼女の相手に進呈する。そのあとで、くだんの二人がどうなったかは知ったことではないけれど、オモシロイ経験だった。

     このあいだ、久しぶりに新宿に行った。ふと、もはや5年以上も前の、あの頃の歌舞伎町を思い出した。


    2000/08/22 かぶく

     昨日、ガイシ系コンサルタント会社に来年から就職する4回生と話す機会があった。卒業論文の構想を聞いてくれ、というものであった。彼の卒業論文は、「エリート教育」についてのものである。なぜうちの講座の学生の卒業論文が「エリート教育」なのかは不問にふすとして、オモシロそうだから、ハナシを聞いていた。

     彼の主張は、要するに「日本の高等教育機関では、平準化の圧力がきつくて、ホントウにチカラをもった奴等がインデンシヴな教育をうける機会がなさすぎる。だから、エリート教育を復活させるべきだ」ということらしい。「アンタ、高等教育は、ユニーヴァーサルアクセスの時代にはいってきてるんだよ」って最初にアドバイスしたけれど、彼の主張は変わらない。どうにもこうにも「エリート教育が大切」らしい。教育学の常識からすると、学者に殺されかねない主張だが、なかなか愉快だ。キチンとしたデータを根拠に大いに主張して欲しい、と切に思う。

     やがて卒業論文のハナシが終わって、仕事の話になった。彼が来年4月から着任する仕事は、相当な激務らしい。かつ、内部でのコンペティションも相当キツイ。でも、彼は相当の自信をもっている。不安などみじんにも感じられない。確かに、彼はフツウの学部生比べても軒並みならぬ能力をもっていそうなので、大丈夫だとは思うが、それにしてもスゴイ自信だ。「デカイコトをやりたい」とシキリに言っている。

     デカイコトねぇ

     僕はふと考える。何かコトを進めるためには、より具体的にモノを思考する必要があるが、最近よくこの「デカイコト」を主張する輩を耳にする。特にガイシ系企業に入社する人々にこの傾向は強い気がする。

     僕が言いたいことはたったひとつ。何かコトを起こすためには、それがどんなに些細な「コト」であったとしても、人間関係の調整も必要だ。泥臭い仕事もしなければならない。はたまた、これは自戒をこめて言うけれど、一見無駄だと思われるモノを自分の足で見に行ったり、取材したりして、自分の中のセンシティヴィティを高める必要がある。デカイことは、そうした「ササイなこと」の集合なのだ。

     デカイコト

     なるほど、それでも彼はやるという。「やってほしい」と切に思う。ダイタイ、このくらいアクが強いヤツの方が、僕は好きだ。「何もやりたいことがない」というヤツよりも、より健全だし心地よい。第一、彼のハッするコトバが小気味よいではないか。

     「かぶく」という日本語がある。広辞苑によれば、「自由奔放にふるまう。異様な身なりをする。人の目につく衣裳を身につける。」という意味だ。この意味だけ見るとあまりいい意味の日本語には思えないが、僕はこのコトバが好きだ。

     いったん「かぶく」ことを決意したなら、たとえ後ろ指をさされても、かぶきとおせ。間違っても、「俺はビックだから」とうそぶいて芸能界を追放されたトシちゃんにはなるな。

     君こそ時代


    2000/08/23 インスピレーション

     先日はじめたというか、旗揚げしたProject Slate。具体的なことは何一つ決まっていない、とりあえずの大枠は「PDAを用いたワークショップ(Collaborative Learning)支援」しか決まっていないプロジェクトだが、善は急げ、という感じで、あらかじめ作っていた研究プランを持って、甲南女子大学の上田先生に心斎橋でお会いした。待ち合わせ場所には、奥様もいらっしゃって、お茶をご一緒した。奥様は噂通りの綺麗な方だった。

     上田先生とは、しばらくディスカッションしていたのだが、非常にインスピレーションにとむ数時間だった。また、自分の研究にリフレクションがかかる数時間でもあった。お忙しいなか貴重な時間を割いていただいて感謝しています。


    コトバにされるのを待っている図

     今日の話は、まだ自分の中では未消化だ。だから、今日の日記はコトバにならない。語り得ぬモノには沈黙しなければならない、と言ったのは前期ヴィトゲンシュタインだが、こういうとき、あいにく僕は沈黙する性格じゃない。というわけで、今日の日記は「図」にしてみた。それが上記の図である。図は、コトバにされるときを待っている。


    2000/08/25 合宿

     我が研究室の合宿で、岡山と島根県にきている。2泊3日の研究室合宿は、一年間に一度行われているが、今年から「お勉強ゼミ」が中止され、観光になった。観光といっても、単なる<観光>ではなく、小学校や博物館などの教育施設をみんなで回ったりするから、ちょっとした「お勉強っぽさ」も含まれている。ちょうどよい加減で、まことにいいことだと思う。合宿をオーガナイズしてくれた今井さんに感謝する。

     昨日は、岡山県の、ある旧尋常小学校をたずねた。外はうだるような暑さだったけれど、木造の校舎の中は、なぜかひんやりと気持ちがいい。教室の一角には、昔懐かしい足踏み式のオルガンが置かれていたので、思わずひいてしまった。優しい音が響く。窓の外からは、ミンミンゼミの声が聞こえた。


    2000/08/26 Interactive Education 2000

     合宿先の島根県をあとにして、BASQUIAT Projectで開発したCSCLソフトウェア「rTable」をもって、インタラクティヴエデュケーション2000の会場に向かう。インタラクティヴエデュケーション2000は、昼12時からの開催なので、朝5時におきて、島根県出雲空港から一路、羽田へ。会場の早稲田大学国際会議場についたのは発表がはじまる一時間前だった。

     インタラクティヴエデュケーション2000の発表は、ソフトウェアのデモンストレーションを中心とした「デモ展示」であり、お客さんにソフトウェアを体験してもらいながら、説明を行わなければならない。僕自身、ソフトウェアのデモ展示ははじめてだったので、最初は少し緊張したけれど、だんだん慣れてきて、途中からはいつものように「イカサマ大阪弁」で吠え出す余裕がでてきた。ホンシツテキではないかもしれないが、今回の展示では、PRビデオもつくったし、ロゴもつくってみたりなんかした。

     海外の学会では、ソフトウェアのデモ展示はもはやアタリマエになってきている。デモがなければ人はこないし、評価もされないというのが現状だ。Interactive Education2000のお客さんは、大学の先生から企業の方々、現場の先生まで多様な背景を持った人が多く、お客さんとのナマでのやりとりは、なかなかオモシロかったし、よい経験になった。このような機会をつくってくれた平嶋先生@九州工業大学、山口さん@神戸大学に感謝します。

    KUSUNOKI SAN's Research (1)
     

      
      
       
    KUSUNOKI SAN's Research (2)
     

      
      

     ところで、ヒマを見つけて他の展示も見て回ったが、個人的には、多摩美術大学の楠先生の研究が僕のツボにはまった。先日、「対面状況下でのコミュニケーション=協同的学習」を支援するアタラシイCSCLプロジェクトを立ち上げたばかりだったので、オモシロウございました。またいろいろ教えてください。

     あと最後に一言。BASQUIAT Project Team Memberの皆さん、本当にお疲れさまでした。


    2000/08/29 Unplugged and Replugged

     8月29日午後2時放送のNHK教育「インターネット情報局」を見た。今回は、Postpetの産みの親であり、メディアアーティストの八谷さんと真鍋さんがゲストだった。番組では、八谷さんの企画でワークショップっぽいことが行われていた。

     ワークショップのテーマは、「おいしさを表現しよう」。

     各人が自分の好きな「めしの友(おかず)」を持ち寄り、ごはんを食べる。そして、そのおいしさをコンピュータを使って表現する。短い時間でのワークショップだったので、早足の感じは否めないが、それでも、非常に重要なことを伝えているように思う。オカタいイメージのあるNHKの教育番組で、この主のワークショップが番組の中でなされたことは、正直、賞賛に値すると思う。

     コンピュータの電源プラグをコンセントに差し込み、学習者をその前に座らせる前に、僕らは考えよう。
     コンピュータの電源をいったん引き抜き(Unplugged)、何を体験し、何を伝え、それを効果的に伝えるデザインを。電源プラグをふたたびを差し込むのは(Replugged)、そのあとだっていいはずだ。

     Unplugged and Replugged

     先日、上田先生@甲南女子大学と話していたときにでてきたタームであるが、このワークショップは、こうしたことをよく踏まえて企画されているような気がする。

     あともうひとつ印象的だったのは、ワークショップで「おいしさを表現しよう」と提案した八谷さん自身が、ワークショップに自ら参加し、楽しんでいたことだ。八谷さんは言う。番組で彼は「HappyをShareする」「自分が楽しいモノをつくりたい」と言っていた。ポストペットも、そのような彼の一貫したメッセージの中から生まれてきたものだという。

     表現の場をつくりたいのなら、自分が「Happy」になり、「楽しめる」場をまず考えるべきだ。自分が楽しめないモノや場に、他人が楽しめるわけがない。

     これはかつてどこかのエッセイに書いたことだが、小学生だった頃、僕は、美術や図工や音楽の時間、つまりは表現の時間が大嫌いだった。センセイは、僕らが何か表現するために、「感情を込めろ」「もっと楽しんで表現しろ」と言うのだが、生意気な僕はいつも、「先生は感情を込めて作品をかけるのですか?」「先生は楽しんでいますか?」と思っていた。生徒達が神妙な面もちで沈黙しながら作品に取り組む教室を、なかば批評家のような感じでキカン巡視するセンセイを見ながら、僕はいつもそう思っていたんだ。

     情報教育の言説空間において、「マルチメディアでの表現の重要性」を主張する言説は多々あり、それに基づいて生み出される実践の数も相当数あると思われるが、一体いくつの言説や実践が、それを生み出した本人が楽しみながら参加できるようなものなのだろうか。

     八谷さんのワークショップを見ていて、僕はそんなことを考えていた。


    2000/08/30 design

     どうでもいいことなんだけど、最近「デザイン」が気になっていて、いまや教育業界では、随分と人口に膾炙したコトバだけれども、最近、ちょっとした出来事があり、僕は本当に「デザイン」を見たことがあったんだろうか、という気になってきて、「いけない、いけない、これではクールな研究ができないわー」なんて思ったから、とりあえず「デザインを考えよう」といろいろ本屋を回った。なんて、こんなコトバづかいは、「ラブ&ホップ」みたいだけど、別に「村上龍」をパクりたかったわけじゃなくって、僕が今感じている切迫感を表現してみたかっただけ。

     ところで、同じ興味をもっている方と一緒に、いろいろ本屋を回ってみると、あるんですねー。デザインの本。とりあえず、初心者根性丸出しで「The Non-designer's design book」なんて買って、「これでレジュメが少しはかっこよくなるかも」なんてほくそ笑み、「design plex」という週刊誌にたどり着きました。これはオモシロイ。メディアとデザインを扱っている本で、毎月特集が組まれていて、「VJ(Video Jockey)」とか「ゲーム」とか「Web design」とか、いろいろ取り上げられているみたい。ちなみに、来月は「i-mode」の特集で、今度はじめるProject Slateにぴったりなので、きっと読むでしょう。ていうか、読む。一緒に本屋に行った人が、定期購読してくれたそうなので、「盗み読み」か?

     自戒をこめて言うけれど、学習とか教育用とかいうと「おいおい、これは18禁」てな具合の、デザインの超ダサイソフトウェア(ゲッ、痛い、自爆)とかサイトに出会うことが多いのですが、もう少し、「見て楽しい」とか「見てココチイー」とか、つまり、デザインの問題を考えるべきなんでしょうね。

     これから初学者として学んでいきたいです、僕。


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