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2000/07/01 男 芥川賞作家の柳美里、はじめての性小説「男」を読んだ。「ポルノ小説を書かないか」と編集者に勧められた彼女が、「目」「耳」「爪」などの身体のパーツをテーマにしながら、自らの性体験や恋愛体験を赤裸々に語る。各章には、まさに今取り組もうとしている「ポルノ小説」の書きかけの断片が挿入されている。ジャンルで言えば、大正期に全盛を迎え、作者自身が自己の生活体験を素材にしながら、彼/彼女自身の心境の変容を描写していく「私小説」というジャンルに近いかもしれない。 このサイトは「acドメイン」であるし、また最近はうちのオカンもこの日記を垣間見ているようなので過激な描写は差し控えるが、印象に残った彼女の語りをいくつか引用してみることにしよう。
男の視点と女の視点 僕はフェミニストでもアンチフェミニストでもない、いわゆるこの領域のノンポリであるけれど、この小説を読むと、イヤがおうでも、男と女の視点の違いを感じざるを得ない。 視点というのは、オモシロイもので、何人たりとも視点を同じにすることはできない。どんなに他者を愛していようとも、そしてどんなに他者と心の上で一体化しようとしても、他者の見ている世界を、そのままのかたちで、あなたが見ることはできない。男と女、性別が違えば、その視点の相違も相当なものなのかもしれない。 しかし、視点の違いこそあれ、一時流行した「失○園」のように、この私小説を読んでいて嫌悪感を持たないのはなぜなのだろう。彼女自身の体験に基づく主題は、かなりドロドロしているのに、それに対する嫌悪感どころか、同情すらわかない。なぜかはわからないけれど、あたかも方程式をながめるかのごとく、語られる主題を第三者的に僕は読んでしまった。 男によって書かれたこういう小説があってもよいと思う。
先日・・・とは言っても、かなり前の話になるけれど、研究室の西森さんからバイクをほとんどタダみたいなお金で譲ってもらった。西森さん、ありがとう。 それまで、僕は「徒歩」で大学に通っていて、そりゃ大学までの道のりは勾配がいくつもあって、あまりに険しく、途中で自動販売機なんかで「無糖缶コーヒ」なんかを買いつつ「ひとやすみ」して、えっちら、おっちら大学に通っていたものだけれども、そんなツラく厳しい登校事情が、このバイクのおかげで変容することになっちゃった。思えば、真夏と真冬は、ほとんど「苦行僧」に近かった、ていうより、苦行僧そのものだよ。 修行するぞ! 修行するぞ! 修行するぞ! でも、笑っちゃいかん、ここで笑っちゃいかんのだが、このバイク。なんと坂道では時速15キロになってしまう代物で、ハッキリ言って「耕耘機」です。譲ってもらったその日に、そう命名しました。北海道の国道なんかを車で走っていると、よく農道から耕耘機がでてきて、後ろに長い車の列をつくることがあって、最悪なことに、そういうときに限って、道路は「ハミキン(はみ出し禁止)」なんだけど、まさにそれと同じです。でも、坂道では時速30キロはでるので、全く気にせず、快適に乗ることができます。時速30キロってアタリマエ?
・・・・わたくし、ウソをついてました。ただでさえ、時速15キロなのに、この上に、もし、おねぇちゃんが乗ったら、僕の耕耘機は確実に動きません。だから、「乗りたい」なんて言わないで。気分次第でせめないで。
2000/07/03 ヒキコモリ 今日は7月3日ではあるけれど、事情があって、7月3日の分の日記を掲載する。というのは、今週一週間は、いつもの一週間よりも心穏やかに暮らしたい。読みたい本もあるし、書きたいこともたくさんある。朝早く起きて、図書館に通い、夜には早々に寝る。そうした生活が、今の僕には必要だ。 いろいろなことが僕の「足りないアタマ」にレスポンスを迫ってくる。僕のアタマは0.18ミクロンのカッパマインではないし、もちろん冷却ファンもついていないから、そんなに一気に処理を迫られても、責任あるレスポンスを返すことができない。 貧乏性のせいか、ネットワークに接続してしまうと、イヤがおうでも、流れゆく情報を前に、僕はそれを「追わない」わけにはいかなくなる。メールチェックも必要以上の頻度でしなければならないような気にもなってくる。今週一週間は、メールチェックは一日に一度するかどうかわからない。否、必要以上のことは語らずにヒッソリと生きることにしよう。今週一週間は、日記の更新もきっと少なくなると思う。 前に本屋に行ったときに、ある恋愛作品のコピーに以下のようなものがあった。
なるほど、わずか数年前は一般の人々でケイタイやポケベルやインターネットをやっている人は、非常に少なかった。待ち合わせをして、相手が来なかったら、彼/彼女がやって来るまで待つしかなかったし、もちろん「n × n」の匿名メディア、出会い系の掲示板なんてなかった。ネットワークには、たとえば「たけし王国」みたいな愚にもつかない自己紹介のページが無数に乱立しているだけであった。 しかし、その「時代」はわずか数年前の日常であったハズなのに、その日常を思い出そうとすると、なぜかそれが「遠い過去」のように感じられ、懐かしさというのか、郷愁に似たものを覚えてしまうのはなぜなのだろう。ミスタードーナツ(ミスド)の広告コピー、「アメリカがまだアメリカだった頃のドーナツ」ではないが、「ボーイ・ミーツ・ガールが、まだボーイ・ミーツ・ガールだった時代」はもう遠い過去なのか? 僕はコンピュータネットワークが従来の教育や学習を変革していくひとつのリソースになればいいなーと思って、日々ケンキュウをしている。だから、ネットワークを使う頻度としては、かなりヘビーな方だと思う。 こんな時は、そうするしかない。ネットワークと距離を置くことで何が変わるかどうかはわからないけれど、少し自分のアタマの中を整理しようと思う。きっと僕のことだから、そのうち寂しくなって、またネットワーク上に姿を現すに違いない。何もなかったフリをしてさ。 それでは皆様、お元気で
2000/07/06 ネットワーク中毒 今週一週間は、少しネットワークから離れて勉強しようと思ったけれど・・・。 でも、少し本は読めました。その中でもオモシロイというか、びっくりしたのが、松岡一郎著「早稲田大学デジタル革命」(アルク刊)です。この本は、IT技術を用いてキャンパスの開放を行うことを目的とした早稲田大学の取り組みを紹介しています。大学の先生と企業と大学の事務のコラボレーションで、こうした実践がはじめて実を結ぶのだ、ということがわかりました。 慶應大学でいち早く行われている「School of Internet(インターネット学科)」の情報処理学会に掲載された論文も読みましたが、私立はハヤイねー。実践の内容やシステムについては、両者の大学に言いたいこと、聞いてみたいことが若干ありますが、ともかくも「できるパワーがある」というのはスゴイことだと思います。 先日、どこかの団体が明らかにしたところでは、現在、不況が襲う日本では、国立大学人気が復活し、私立大学の経営が危ぶまれているとか。私立大学の3割は、受験の倍率が1倍なんでしょ。 今、確実に変革の努力をしている私立大学は、これに備えているんでしょうね。 はぁ・・・今日も一日早かったな・・・、身も心も疲れ果てました。 Web
2000/07/07 忘れ去られたプログラミング 今日は、山内さんとお話しする機会があった。 Mindstormのセットを手にした学習者は、ブロックを組み合わせ、また、ブロックにのっける8bitコンピュータにプログラミングをして、実際に動くロボットをつくることができる。8bit コンピュータへのプログラミングは、フツウのコンピュータを使って、グラフィカルなプログラミング環境の上で行うことができる。このプログラミングも、一種のブロックづくりみたいなもので、命令群のアイコンを適当にあーだこーだ動かしているうちにプログラミングができちゃうのだ。C言語とかJAVAとか、そういう難しい話しじゃないし、Visual Basicよりも直感的にプログラミングができちゃう。 今日のミーティングでは、このMindstormをある研究プロジェクトの学習材として利用できないかってことを話し合ったけれど、「ハッキリ言って、これはイケるんちゃう!」と我々は考えておりました。 Mindstormを使えば、プログラミングの結果が、キチンと意味のある<カタチ>になって、誰の目にも明らかなように提示されるわけです。だって、ロボットなんだから。それに、一人でも学習できるし、複数の学習者で取り組んだら、もっと付加価値のありそうなプログラムが書けそうじゃないですか。阿波踊りロボットとかも夢じゃない。今まで、プログラミングの授業って言ったら、ハノイの塔のプログラムとか、円周率を求めるプログラムとか、「一般ピーポーにとっては、だからどうしたプログラム」を演習するしかなかったんだけど、Mindstormの方は、学びの必然性というか、文脈をつくりやすいような気がするのです。 蓋し、近年の<情報教育>では、従来のマイコン時代の情報教育の反省から、プログラミングというものが圧倒的に軽視されているように思うんです。
という命題が、近年の<情報教育>の言説空間では語られるのですが、それは確かなことだと思うけれど、だからといって、「子どもがプログラミングすることは時代遅れで、必要のないことだ」と拡大解釈されると、話がオカシクなってしまうような気がします。でも、この種類の論理のすり替えはよく起こっているのではないかと思うのです。
心の嵐ってことですね。そんなの誰でもわかるってーの。これは、MITのシーモア・パパートの著書からとった名前でしょう。これからも注目していきたいと思います。
頂いたスピルマグとTシャツで悦にはいっている様子
2000/07/08 ピッピ、おめでとう 先日、郷里から、友人の結婚の知らせが届いた。アヤちゃん、じゅんちゃんに続き、ピッピ(土肥だからピッピと言うらしい)も結婚するとのこと。(どうなってるんだ、早すぎるぞ、おい! シェークスピアの名モンクを忘れたか?) 8月26日に挙式とのことであるが、僕は、Interactive Education2000で、BASQUIATプロジェクトで開発したソフトウェアのデモンストレーションがあるため、出席できない。ごめんね、行けなくて。ピッピ、本当におめでとう。お幸せに。 今日は、せっかくの日曜だと言うのに、久しぶりにオウチで研究に取り組む。先日、お邪魔した小学校のDVテープをちゃっかちゃっかとノンリニア編集したあと、教師の語りプロジェクトのインタビューデータの再構成。それが終わったあとで、明日、図書館に行って借りてくる文献リストの作成と、Project Scioで必要な調査データをWord2000で整理する。 DV編集はオモシロイ。全然飽きない。タイトルを入れたり、エフェクトをかけたり。でも、これはハマルと、ドップリつかって抜けられそうなので、キリのいいところで、やめる勇気が必要だと思う。 それにしても、Word2000。やい、ワード。なんて使いにくいんだ、君は! そんなこんなで、明日がまた来る。
2000/07/09 官僚的なもの ハッキリ言わせていただくけれど、僕は「官僚的なものの考え方」や「官僚主義的な手続き」が大嫌いだ。誤解を避けるために言っておくが「官僚」をやっている人が嫌いなわけじゃない。そうした場に脈々と反省もなく生き続ける、つまりは先例化した手続きや思考回路がどうしても好きになれない。今日は、このとおり、のっけから吠えている。「イヤーン、官僚、好き好き。万歳、官僚!、ハービバビバ」なんていう人は、以下の日記を見ない方がいいと思う。 ところで、官僚制とは何だろう。マックス=ウェバーをはじめとする社会学者の弁によれば、それは近代という時代を支えるのに必要な組織原理であり、その効率性を維持するために、大量のドキュメンテーション(文書)と許可を必要とするのだという。大量の人や事務をサバイていくためには、そういうモノが必要だってことは一応はわかる。でも、やっぱり僕は好きになれない。 しかし、僕のこの傾向はそう昔からあったわけじゃない。大学一年生の頃、駒場キャンパスに通う学生だった僕は、周囲の友人と将来を語るとき、「うーん、官僚になってもいいかな」と偉そうに言っていたはずだ。本当になりたかったわけではなくって、将来のことを考えるのが面倒くさかっただけなんだと思う。でも、結局、僕は官僚にはなろうとしなかった。そして、官僚とは最も対局の世界、つまりは自律的かつ自由な学問の世界へ片足をつっこんでしまった。 ところが・・・大学の世界ってのも、官僚制と無縁じゃない。意味もなく書かされる多数の書類、不条理な手続き。フツウに大学で学生をやっていると、それほど思わないのかもしれないが、ちょっと特別なことや先例のないことをしようと思うと、キャーッて感じである。 先日、健康診断書を取りに豊中キャンパスと吹田キャンパスのあいだをバスで2往復し、貴重な一日のすべてをそれに費やした。まぁ、大変なことなんだ、変な時期に1通の健康診断書をもらおうとすると。うちの大学の保健セン○ーには多くの学生がアタマにきているんだけど(これは本当)、それでも、何の改善の方向も見えない。思わず「IT化しろよ」と言いたいのだけれども、「昨日のようにかくありたい」というホメオスタシスの原則は、組織に深く沈殿している。 僕が生涯あがない続けるであろう組織原理は、僕のすぐ近くに存在する。
2000/07/10 星のこと 星をアンタが語るなってーの 一部の人は、僕のキャラと「お星様」が全く重ならない(?)ことに違和感を覚え、そう思うかもしれないけれど、ていうか、自分でもそう思うんだけど、今日の日記では、「星」と「僕」を語ります。ていうか、情けなくもあり、少しホッティなエピソード。 星と聞いて、まず思い出すのは、中学生の頃の宿泊研修です。宿泊研修っていうのは、なんか名前は地味なんだけど、普段は昼間の学校でしか会うことのないクラスメートと、夜を一緒に過ごすっていうのは、これまた特別な趣があるわけさ。で、僕らが訪れたところは、大雪山連峰のふもとだったから、ものすごく星が綺麗なわけさ。 で、その「星」なんだけど、僕には少し苦い思い出があるんです。それは、当時好きだった女の子を宿泊棟の外に誘って、先生の目を盗んで「単なるお話」をしていたときに、こんなことを言われちゃったわけさ。
わかるって、アンタ、お星様なんてわかるわけないじゃーん。星座って、たぶん、ギリシアとかエジプトとか古代の土地で考えられたものだと思うんだけど、このときほど、この星座を考えた奴を憎んだときはありませんでした。殺す! てなわけで、そのとき以来、「星なんて好きくないぜ、そったらもん、なくても生きていけるべさ」と思いつつ、日々を暮らしていたんだけど、大学生のときに、この思いは大転回するんです。それは、恥ずかしい話なんだけど、帰省したときに友達のすーちゃんに誘われて、美瑛の超ドイナカに天体望遠鏡を持っていって、お星様を見たわけさ。そしたら、いつもは全く見えなかったところに星が見えるのですよ、アタリマエの話だけれど。そういう星は、光が小さいので、天体望遠鏡がなきゃ見えないのですね。で、はじめて「アマノガワ」ってものを見ました。びっくりした、本当に。こんなに綺麗なものが世の中にあるんだったら、さっさと教えてくれってーの。 関係ないけれど、7年前、北海道から上京してはじめて、イタメシ屋に行って、「カルボナーラ」とかいう「ぱすた」を食って、僕は「世の中にこんなにウマイものがあったのか」と猛烈に感動したけれど、まさにそれと同じです。えっ? はじめて天体望遠鏡でのぞいた夜空。あんなに感動したのに、僕はそれ以来、星とは無縁の生活を送っています。やっぱり縁がなかったのかな、とも思うけれど、いつかもう一度見てみたいものです。そのときにもやっぱり、あのときと同じように、無数の星が天の川を流れているのかな。
2000/07/12 運動靴と赤い金魚 マジット=マジディ監督の映画「運動靴と赤い金魚」を見た。少し前にちょっとした話題になっていた映画なので既に見た方も多いかと思うが、僕は今日はじめて見ることができた。「見なければなぁ」と思いつつ暮らすこと半年。ようやくパッケージを手に取った。 「運動靴と赤い金魚」は典型的なイラン映画である。イラン映画といえば、第一に子どもが主人公の映画が多く、第二にエンディングを描かず、オーディエンスの想像力にエンディングを投げかける映画が多いという特徴を持っているが、その意味でこの映画は「典型的」である。 貧しい家庭に生まれた小学校3年生のアリとザーラの兄弟は、日々、学校に通いつつも家庭の手伝いをしながらたくましく生きている。しかし、ある日、アリがお使いの途中で、修理したばかりのザーラの靴をなくしてしまう。自分の家庭が貧しいことがわかっている故に、彼らは親にそのことを告げない。アリの一足の運動靴をかわりばんこにはいて、学校に通う日々が続く。そうこうしているうちに、アリの地域でマラソン大会が開かれる。マラソン大会の3等賞には、なんと運動靴が。アリは妹の靴を手に入れるため、マラソン大会に出場し、3等賞をねらう。 あらすじは、だいたいこんなところだろう。 シュワルツネガーやブルースウィリスなどの主演するハリウッド系ドンパチ映画に慣れていると、このあらすじは、あまりに単調に思われるかもしれない。かくいう僕も、「イラン映画にたえられるだろうか」という思いが先行して、今までそれを手にしようとはしなかった。しかし、予想を裏切り、かなりオモシロカッタ。今週は、モノスゴク忙しかったせいもあり、半分「死にかけ人形」で魂がプラプラしていたので、癒された。 オトナの目から見てアタリマエの毎日、そんなモノトノーツな雰囲気の支配する日常にも、子どもの目から見ればヤマがあり、タニがある。子どもは、そんなヤマやタニを何とか何とかやり過ごしながら、いつかオトナになる日を、ぼんやりと心の隅に浮かべつつ、やはり今日を生きる。 僕にもそんな時が、確実にあったこと、思い出してしまった。
2000/07/13 編集という行為 BASQUIAT Projectというプロジェクトの評価実験を行うため、現在、Webのコースウェアをつくることに取り組んでいる。 BASQUIAT Projectは、複数の学習者同士が議論を行いつつ、みんなで問題を協同的に解決していくためのソフトウェアを僕らが開発して、評価するっていうプロジェクトで、既に「rTable(アールテーブル)」っていう名前のソフトウェアが8割方完成しています。で、その時の議論のネタを提供しようっていうので、僕は、今、Webのコースウェアを作成しているのです。Webのコースウェア自体は、動画コンテンツを含むものなので、取材の交渉をしたり、ロケをしたりして作っています。まぁ、大変だけれど、楽しいですね。 具体的には、撮影してきたDVテープを編集したりして、1分から2分程度のショートVTRを作ろうとしているのだけれど、最近、ヒマを見つけてはノンリニア編集にハマッています。これはオモシロイ。 まず、撮影してきたDV(デジタルビデオ)の中から必要なカットをバッチキャプチャして、あとは、それをチャキチャキとつないで、たまにはエフェクトとかタイトルなんか入れたりして、キャーッて感じ。最後のスタッフロールに、「Presented by Jun NAKAHARA」と入れるのが快感です。否、快楽だ。単に「目立ちたがり」って話しもあるんだけど。 オマケに完成した映像をCD-ROMに映像を焼いたときなんかは、おしっこチビっちゃうほどのエクスタシーが僕を襲っちゃうんだね、これが。まぁ、ほとんど自己満足に近いっちゃー近いんだけど、楽しいんだからいいじゃん。 悪いの? 自己満足で。 ところで、コンピュータ上でのノンリニア編集でなければ学部時代に数回程度やってみたことはあるのだけれど、そのときはあんまりオモシロイと思わなかったんです。でも、なぜか今回ははまっています。 で、編集を最近はじめるようになって気づいたこと4点。
月並みだけれど、最近、上記のようなこと実感できるようになりました。 8月の初旬に、山内さんのご厚意でMELL(MEdia Literacy Learning) Projectというメディアリテラシー関係の合宿に参加させてもらうことになったのですが、やっぱりメディアリテラシーってのは、実際に「ツクリテ」の立場にたってみないとわかんないし、もし仮にそうしたリテラシーが存在するとして、そういうのはツクリテの立場に一回でも立ってみないと学習できないんじゃないかなって切に思います。
2000/07/15 英語のこと 先日、投稿していた国際会議「ICCE2000(International Conference of Computing in Education 2000)」用の原稿が、何とかフルペーパーとして査読を生き残りました。英語で論文を書くのは、今回がはじめてだったんだけど、よかった、よかった。一安心です。でも、「通った」ということは、イコール、「英語で発表しなければならない」ってことを意味するわけで、それほど、ノンキにかまえているわけにもいきません。あらゆる手を使って、英語プレゼンテーションの仕方をマスターせねば。
だいたい、僕、いつも思うんだけど、綺麗な英語を話せるにこしたことはないけどさ、それができなくて、卑屈になったり、自信を失ってしまうことほど、アホなことはないと思います。よく海外に留学したりして帰ってくるなり、「君にアサインしたジョブのデューはどうなってる?」とか意味不明の「トンチンカン言語」をしゃべる奴いるけど、「オマエ、恥を知れ!、この国賊が」と言いたいね、どっかの首相じゃないけどさ。そんな「トンチンカン言語」で、俺がひるむと思ったら、大間違いだ。 僕自身は、それほど英語を話せる訳じゃないけれど、ハッキリ言って、ずーずーしいから、「流暢に話せないこと」を何とも思っていません。まぁ、努力はしますが。 まぁ、とにかくやるだけやってみます。
2000/07/17 リストラッ子にならないために 先日から取り組みはじめたプロジェクトの調査のため、最近、ネットワーク上の教育事業を調べているんだけど、スゴイのを知ってしまいました。これはキワモノですね。
一見、幼児向けのパソコン塾かと思いきや、単なるパソコン塾ではないんです。要するに「将来、よい仕事ができるような基礎的な能力を子どものうちからつけちゃおう」ってことらしい。 ここでポイントは、「よい会社にはいる」ではなくて、「よい仕事」というところでしょうか。つまり、将来子どもが起業したり、ヘッドハンティングに乗じて企業をわたりあるくことを念頭において、「問題解決重視」のカリキュラムが組まれているというところでしょう。 だから、学習方法も独特で、ケーススタディメソッドを用いています。要するに、「あなたは株価の低迷している会社の社長、さてどない?」ってな具合に、あるストーリーに基づいて、リアルな世界の問題解決を行っていくというかな。そして、それに必要なコンピュータの操作や知識をつけていくっていう感じになっています。要するに、子供版MBAか。 このサイトで一番びびったのは、この会社が主催しているイベントのコピーです。
だってさ。リストラって、アンタって感じやんなぁ。僕は、潜在的失業者だからいいけど、リストラないし。 まぁ、学習の立場からいろいろ言いたいことはあるけれど、それにしてもビックリしました。僕らの子どもの頃っていったら、汚い格好で鼻垂らして、おまけにシャツをズボンからだして、野球とかサンショウウオとりにいってたもんなー。余裕シャキシャキ火がボーボーで、リストラッ子じゃん、俺。いや、違った、今の僕にリストラはありえない。「潜在的失業者=大学院生」なんだから、リストラなんてないもんねー。 悪いの? 全くスゴイ時代になってきましたね。
2000/07/18 マニアゴゴロ満開 初対面の人に僕が自己紹介すると、よく聞かれる質問に、以下のような質問がある。
よほど珍しいのか、はたまたよほどヘンチクリンなことなのか、好奇心に満ちた目で、このように聞かれること、今までに100回はあったかと思う。このように聞かれたら、現在の僕は、まずは、以下のように答えることにしている。
それでも、まだ納得されない方には、ちょっと恥ずかしいんだけど、ちゃんと答える。指導教官の退官が迫っていたこと、実際に開発やデザインをおこないながら、研究を進めたかったこと。だいたい以上2点のような理由を伝えることが多い。事実、僕が大阪に来た理由は、これら2点の理由以上でも以下でもない。 さて、僕が大阪に移って、はや3年になろうとしている。相変わらず、ヘンチクリンな「標準語風大阪弁北海道人的アレンジ」で吠え続けているが、このあいだ、研究室のサーバーに蓄積されているデジカメ写真を見ていたら、妙に、感慨に襲われた。
笑えるのは、「ゲリラ飲み会」と名付けられたフォルダの写真に必ず、僕の姿があることだ。なぜって、ほとんどの「ゲリラ飲み会」は僕が企画しているから。あー、あの頃は若かった。懐かしい。 ところで、大阪の研究室だが、まぁいろいろあるけれど(何が?)、最近、この研究室に来てよかったなぁと思った瞬間があった。今まで気づかなかったけれど、よくよく考えてみれば、モノスゴイ環境だったのだな、と思ったのだ。 それは、うちの研究室には、というよりも、今、僕が一緒に研究している仲間の院生には、機械にマニアックな院生が多いということである。たとえば、コンピュータのこととか、AVのこと、カメラや映像のことになると、彼らは、機械の「型番」でコミュニケーションがとれる。僕も実は、そのような傾向が昔からあった。いろいろなモノに凝っては、とことんカタログや書籍を買い込み、知識や技術を蓄え、ある程度のところまで極めないと気が済まないタチなのだ。この僕の性向はオヤジゆずりという話もある。うちのオヤジも、没入型だ。 ところが、マニアでない人から見れば、このような性向はあまり好ましいモノではない。露骨に目をしかめる人もいるだろう。僕も大学学部時代には、「オタッキー」と言われるのがイヤで、自らのマニアック傾向を隠していた。しかし、うちの研究室のマニアック院生と話していると、全くその必要がない。隠す必要がないのだ、だって、相手もマニアックなんだから。「マニア万歳!、マニアゴコロ満開」って感じである。 僕はかつて日記に、「ジェネラリストなんていらない、これからはコミュニケーションできるマニアの時代だ」、と書いたことがある。僕を含めてうちの研究室のマニアック院生たちが、「コミュニケーションできるマニア」か「単なるオタク」かは判断できないが、今まで「オタク」と揶揄されてきたマニアたちが立ち上がる時代はもうすぐそこまできていると思われる。「若きウェルテルの悩み」を書いたゲーテじゃないけれど、高らかに宣言しよう。
まぁ、いろいろあるけれど(何が?)、本当に大阪にきてよかったと、今、思う。あのときの僕の判断は、全く間違っていなかったと、自信をもって言うことができる。
2000/07/19 Palm 今年になって以来、とみにスケジュールが忙しくなり、PDA端末の導入を考えている。これまで僕はスケジュールの管理を、「Sidekick97」と「付箋紙2000」を組み合わせることで行ってきた。つまり、手帳ではなくコンピュータ上ですべてスケジュール管理を行っていたことになる。この組み合わせはほとんど無敵に近い。これらアプリケーションを使うようになってから、はや半年が過ぎようとしているが、今までスケジュールを落としたことは一度もない。 ところが、コンピュータでスケジュール管理を行うことには、少し難点があるのだ。それは、スケジュールを確認したいときに、コンピュータをいちいち起動しなければならないことにある。頻繁にスケジュールが更新されるようになった今としては、これが面倒くさい。また、ちょっとした用事のときにでも、Fuck'in ヘビーなコンピュータを持ちあるかなければならないことが、結構、ツライのだ。特に、出張が多くなっているため、少しでも荷物を軽くしたい。 というわけで、最近、「清水の舞台からハダカで飛び降りて阿波踊りをする覚悟」で、PDA端末の導入を考えているのだが、非常に、悩ませる選択がここには存在している。ZAURUSを選ぶか、Palmを選ぶか、という選択である。値段的には、それほど変わらないところが、また悩みのタネである。 ZAURUSは、シャープのPDA端末として独自の発展をしていて、すこぶる操作性がよく、手書き認識も軽快である。しかし、難点は2つあって、コンピュータとの連携があまり得意でないし、たぶん数年後にはシェアをかなり落とす予想がたてられている。一方、Palmは、手書き認識はできないが、世界標準で、いまや指数関数的に利用者が急増している端末である。コンピュータとの連携もUSB経由で完璧だ。次世代のCSCL端末として期待されていることもあるし、開発環境も整っているため、自分でプログラミングをすることもできる。しかし、標準では手書き認識ができない、あるいはできたとしても、ZAURUSの比にはとうてい及ばない。 もう2週間も前から、この2つの選択肢の前で悩み続けているのだが、いくらマニアックにカタログを眺めても、答えはでない。
と、半ばあきれ顔で西森さんに言われてしまった。 それにしても、この選択、マニアゴコロをくすぐる。もう少しだけ、調べ尽くそうと思う。関連書籍もすでに買ってきたが、それでもまだまだ足りない。
2000/07/24 雪国 川端康成の「雪国」の最初のくだりは、言うまでもなく美しい。
内地人から見れば「ロシア領」と思われても仕方がない雪国出身の僕としては、このくだりがとても好きだ。 帰省の折りには、千歳空港から旭川まで汽車(電車?)に揺られること3時間。特に冬の帰省で、車中、何もすることもなく窓の外を眺めていると、あたり一面を覆い尽くす「雪」の中に吸い込まれそうな錯覚を覚えてしまう。電車の中の光景はすべて虚構で、トンネルを抜けた先に広がる、この白銀の世界だけが真実みたいに思える。不思議なことだ。 ところで、7月19日に電車の車中で日記を書いて以来、トンネルを抜けると、7月24日だった。この数日間は、怒濤のように走り抜けた。立ち上げ期のプロジェクトに複数絡んでいるせいで、取材にいったり、教材を作ったり、久しぶりに論文を書いたりして、すべての時間は費やされた。今も今年の学会の原稿をシコシコと書いているのだが、今日中にそれを書き上げることができるだろうか。朝の8時からフル稼働していて、もう5杯目のコーヒーになる。 7月19日から24日というごく短い期間ではなくて、本当に長く果てしないモノのように思えてしまう研究生活を、今、仮にトンネルにたとえるならば、そのトンネルを抜けた先には、何が待っているのだろう。
たとえ、そこに、美しい白銀の世界が広がっていなかったとしても、それでも、僕は早くトンネルの先に広がるモノを見てみたいと願う。 |