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2000/06/01 BAGDAD CAFE
僕の好きな映画に「バグダッドカフェ」という映画がある。 アメリカのモハベ砂漠にたつボロボロのカフェ。そこに流れ着いたドイツ人の女性ヤスミン。最初は、カフェの女主人ブレンダを筆頭に周囲の人々に白眼視された彼女が、だんだんと周囲に受け入れられていく。殊更、容姿が端麗なわけではないけれど、彼女は乾ききった人々の心を癒し、カフェを繁盛させる不思議な力をもっていた。 映像のつくりとしては、随所に工夫がなされている。 第一の工夫は、映像そのものの「色使い」が物語の展開によって変化することだ。 第二の工夫は、ヤスミンの心象風景がところどころ短いカットで挿入されていることであろうか。心象風景がそのまま挿入されなくても、たとえば、カフェに入り浸っている絵描きの描く「ヤスミンの絵」の変化で、彼女の心は表現されている。第一の工夫にもつながるが、この映画は「心を描くこと」に、とにかく技巧をこらしている。 最後に第三の工夫。否、これは工夫というべきではないな。それは、この映画を語る際には絶対に忘れてはいけないことだろう。随所に流れているテーマ曲「Calling you」の限りない透明さ。この曲だけは、是非、一度経験してみてほしいと思う。 今日は久しぶりにバグダッドカフェを見直した。この映画のように、何度見ても新たな発見があり、楽しめる映画はそう多くはない。
バグダッドカフェ 映画
2000/06/05 最近のこと 一ヶ月前ぐらいからアナウンスを流していたCSCL公開研究会「CSCL - Emerging Next Generation」が盛況のうちに終了した。朝から夜までぶっ通しで報告とディスカッションの続く非常に長い研究会だったため、皆さまをアホほど疲れさせてしまうことになってしまったが、僕にとっては、かなりインスピレーションがわいていい感じだった。 週末研究会があったせいもあり、今日は早めに大学から戻ってきたものの、今週から地獄のように毎日ミーティングが続く。書かなければならないプロポーザルやプレゼンテーションも山のようにある。週末には、CSCL研究会の定期ミーティングがあり、それが終わると富山で合宿である。忙しい日々を過ごすことになりそうだが、最近カラダの調子を崩したばっかりなので、それだけは避けよう。 そういえば、最近、日々の忙殺を忘れて2本のビデオを見た。「バッファロー'66」と「ブレードランナー最終版」である。 「バッファロー'66」はスタイリッシュな雰囲気漂うハートフルな映画である。ヴィンセント・ギャロが監督・主演をつとめているので、そのスタイリッシュさは容易に想像がつく。 後者の「ブレードランナー最終版」はディレクターズカットであり、劇場公開版のそれよりも3分短い。劇場公開版はこれまでにも何度か見たことがあったが、今回は敢えてディレクターズカットを借りてきた。 あー、そんなことを書いていたら午前2時を過ぎてしまった。明日はBASQUIATプロジェクトのミーティングだ。困った、まだレジュメができていない。困った、困った。 やらなければならないことは、やるしかない。
バッファロー'66 ブレードランナー CSCL研究会
2000/06/06 ヴァーチャルとホンモノっぽさ 先日、ある男の子からメールをもらい、ヴァーチャルなものとホンモノっぽさについて、頬杖をつきながら、少しだけ考えた。 けだし、現在のIT業界は、既存の「フィジカルなモノ」をヴァーチャルな世界に置き換えようとしているような気がしてならない。ヴァーチャルモール、ヴァーチャルユニヴァシティ、ヴァーチャルスクール、ヴァーチャルシティ。接頭語に「ヴァーチャル」がつけば、要するに何でもよいのかなぁという気がしないでもない。しまいには、「ヴァーチャル泉ピン子」がでてきてもおかしくないぞ。 は? ただし、そうした試み(Enterprise)が成功するかどうかっていうのは、単に単語のアタマに「ヴァーチャル」をつけただけでは保障されない。事実、ヴァーチャルな「試み」のほとんどは、浮かんでは消え、消えてはうかぶ「泡沫」のようなIT業界の中で、いつしか忘れられていく運命にある。 いったい「ヴァーチャルなるもの」の成功は、何の要因に依存しているのだろう。答えはまさに五里霧中といった感じであるが、ひとつだけ言えるのだとすれば、ある人がヴァーチャルな空間でおこなった「行為(Act)」が、実社会における何らかの人々の営みと「つながり」をもっているということだろうか。つまり、ヴァーチャルな空間で行った事柄が、実社会で人々に認められ、吟味されるような事柄でなければ、うまくいかないような気がする。 ヴァーチャルなものは、単体では人々にリアリティを与えることはできない。それは社会の「ホンモノの実践=ホンモノっぽさ」とつながっていなければならない。 安易に「ヴァーチャルなもの」と「リアルなもの」を二元論的に把握したことを反省しつつ、今日も大学に向かう。
ヴァーチャル 社会 ホンモノっぽさ 泉ピン子
2000/06/07 トロッコ 芥川龍之介の短編作品に「トロッコ」という作品がある。「羅生門」とか「鼻」とか「芋粥」とか、誰でも知っていて当然、あまりに有名すぎるほどの作品とはいかないまでも、結構、僕は好きだったりする。 疲れ果てた少年の前には、藪や坂のある道が細々と断続している。 畢竟、少年の前にはいつも断続する道がある。少年が<少年>であろうとも、彼の前には道がある。 前にも日記で放したかもしれないが、僕は「〜すれば/できれば/終われば、楽になるから」という一般的な語りぐさを信じていない。少年の前には、いつも断続する道がある。問題は、その断続する道を前に進むか、それともそこに留まるか、後に引き返すか。つまり、3つの選択肢のどれを選ぶかってことだけだと思っている。そこに必要なのは、断続する道に対する「あきらめ」や「嘆息」じゃない。必要なのは、「潔さ」だ。 疲れ果てた少年の前には、藪や坂のある道が細々と断続している。 追伸. 「肩こりがひどい、ひどい」と研究室でわめいていたら、ツムラの薬用入浴剤を持ってきてくれた今井さん。「さくらの湯」で肩こりがだいぶんよくなりました。この場を借りて感謝いたします。ありがとうございました。
トロッコ 芥川龍之介 文学 幸せ
2000/06/08 嬉しかったこと 最近、嬉しかった2つの出来事。 第一の「嬉しい出来事」は、先日、アメリカに出張中の宇治橋ディレクター(NHK)から一通のメールをいただいたことだ。 自分のつくっているホームページがきっかけとなって、それまで互いの存在を知らなかった人々が出会う。松本清張じゃないけれど、「点」と「点」がつながり「線」になっていく。ホームページをつくっている当人にとって、こんなに嬉しいことはない。 第二の「嬉しい出来事」は、先日、元指導教官の佐伯先生に「今朝は貴殿のホームページを見ていたら、あっという間に1時間がたってしまった!」とのメールをいただいたことだ。この佐伯先生のメールの内容は、別に僕のホームページがメインではなくって、そのことはメールの冒頭部分に少しだけ書かれていたのだけれども、なぜか嬉しくて笑みがこぼれた。先生とはこれまで随分お話しさせていただいたが、これまで僕のホームページのことなど殆ど話題にでたこともなかったから、なおさらだったんだろう。 月並みな語りぐさだけれども、ホームページを「つくる」だけなら簡単だ。でも、毎日コンテンツを更新し、それを維持していくのは、本当に面倒くさいし、そのおかげで寝る時間が少なくなったりする。おまけに、たまーにだが、変テコなメールをもらったり、心ない誹謗中傷をされたり、密かに陰口をたたかれることもある。まぁ、「その日に考えたことや思ったこと」を整理もせずに言いたい放題言っているから、「こいつ、アタマ悪いんじゃないの」と言われても仕方ないのだが、これは意外に結構キクんだな、心に。 でも、いくら好きで楽しんでつくっているとはいえ、僕もたまにクジケそうになるので、こういうお知らせは非常に嬉しい。宇治橋さんや佐伯先生以外にも、たとえば堀田先生(富山大学)や鈴木さん(静岡県の現場の先生)などは、時に励ましのメールをくれたりする。そのたびに、これからも気合いをいれて、コンテンツをつくっていこうと思う。 僕がホームページを開設して、はや4年が過ぎた。最初は全サイトへのリクエストが一ヶ月に105件しかなかったが、いまや一ヶ月のリクエストは7000件を超えている。整理もされていないし、時に矛盾があったりする内容だけど、これからも「ガシガシ」と更新していこう。 Making web site goes on...
ホームページ 嬉しいこと
2000/06/09 苦しまなければならぬ 今週は、以下のような事柄に取り組んでいた。
今週に取り組んだすべてのことがなぜすぐにわかるかっていうと、僕は自分のスケジュールをすべてコンピュータ上で管理しており、すべてログが残っているからだ。アナログの(?)フツウのオーガナイザーは、一切使っていない。具体的には「Internet Sidekick 97」というスケジューラーと「付箋紙98」という付箋紙ソフトウェアを使っている。 何か予定がはいると、まずスケジューラーにそのタスクの「完了予定期日」を入力し、同時に、その内容と期日を「付箋紙」を使って、コンピュータのデスクトップに記しておく。「付箋紙98」は、期日がくると付箋紙の色が次第に「赤」に変わっていくので、これを使ってからというもの、予定の取りこぼしがほとんどなくなった。それでも、デスクトップが真っ赤な付箋で一杯になることがたまにあり、そんなときはほぼ憤死状態。予定をこなして「付箋紙」をはがすことを唯一の楽しみにしながら、「泣きながら」コンピュータに向かっている。 まぁ、こんな風に予定をこなしているのだが、たまーにブルーになることがある。「オイラは何をやっているのだ、どこに向かおうとしているのだ」といった感情に急に襲われ、急に自信を喪失してしまうのだ。きっかけはふとしたことでやってくる。今週の場合は、「自分のエスノグラフィーの理論的検討」がなかなか進まず、非常に苦しい思いをした。ていうか、今も苦しいんだよー、ひゃー。 「理論をキチンとふまえよう」とは思うのだが、なかなかよい案がうかばない。研究室の自分の本棚の前を行ったり来たりして、時に本をとっては眺め、時にぼんやりと窓の外を見つめる。ブラインドの外には、カップルがいて手をつなぎながら帰っていくのが見える。キャー。殺意を感じる。でもやっぱり思考は進まない。こういうときは時間がたつのが早いもので、朝の8時から夜の2時までホントウに一瞬のように感じる。 オイラは何をやってるんだ、何が書きたいんだ ブルーになる。 まぁ、そうはいっても、「理論をキチンとふまえること」が数週間でできるわけもない。ゆっくりもう少し苦しもう。否、苦しまなければならぬのだ。ヴィゴツキーが一生をかけて取り組んだその理論とその理論に基づいて拡張された概念を、オツムチンチクリンの大学院生が、たかが数週間で整理できるわけがないんだ。 僕は苦しまねばならない。
スケジュール 管理 ヴィゴツキー 理論 憤死
2000/06/10 アターマにキタ 豊平川をさかのぼるサケのように、先日修理にだした愛機○AIOが今日、修理から戻ってきた。キーボードの一部がぐらぐらになってキチンと押せなくなってきたのだ。ちなみに、僕の○AIOは修理を3度経験している。一番最初はドット欠け、2番目は液晶モニタの破損、そして今回が3度目になる。いい加減にせっちゅうねん! 眠い目をこすりこすり、梱包をとくと、愛機VAIOが、そこらじゅうピカピカになって綺麗な姿で帰ってきている。「あー、綺麗になって帰ってきたんでないかい、ほれ、中に入って暖ったまんなぁ(北海道弁的な独り言)」とか思って、ベッドに転がりながら、電源を入れる。そして、オモムロにキーボードを叩きはじめる。
なんかキーボードがういてるぞ。ぐらぐらだ。横からみても下からみても、ぐらぐらだ。「打ち上げ花火」じゃないんだから、横から見ても下からみても仕方ないぞ。否、どっから見ても、キーの一部が浮いている。
急に怖くなってキーボードを叩いてみる。
ガーン 今度こそ、アターマにキタぞ。どうして、こんなに壊れやすいんだ、○AIOって奴は。僕のまわりで一年以内に修理を経験しない○AIOの方が少ないくらいだぞ。何もオイラ悪いことしてないしょや。それに、どうしてチャンと修理できないんだ、アンタんとこは。壊れやすいなら、そのようにIBMみたいにパーツをバラで売ってくれってーの。一回一回修理に出さなくてはならんのだよ。これでまた2週間待つことになるんだぞ。 煮えくりかえったハラを何とか冷まして、電話をとる。サポートセンターだ。すると、サポート担当のお姉さんが電話にでた。事情を話すと、何をぬかすかと思ったら、
おいおい、お嬢ちゃん。お兄さんをなめちゃいけないよ。北海道人だからってバカにしてるでしょ。そりゃ、イカサマ関西弁だし、ナンチャッテ大学院生だけど、それでも「客」だよ、アンタ。
すっかり「キレ」てしまって、北海道弁になってしまった。 結局、このあと販売店とすったもんだの末、販売店側が大変よい対応をしてくれたおかげで、愛機VAIOは4度目の修理に「大海原」に旅立っていった。
ノートパソコン 修理 ガーン トホホ
2000/06/11 不自然な会話 コトバをつむぎ、編みこむこと それってどうにも難しい。研究を志す者にとっては、コトバ(ロゴス)は生命線であるから、僕も結構気を使っているけれど、それでも、ヘンチクリンな言い回しをしてみたり、わかりにくい節や単語を使ってしまったりすることシバシである。筆者の予想を超え、意外にも多くの人に読まれていたりするこの日記なんていい例だ。悪文の典型であろう。 先日、ある飲み会で僕はこんな話をした。 僕は小説家になりたいと思った時期があったが、会話文が書けないのでやめた。大学1年か2年の駒場時代には、何編か短編小説を書いた時期があった。でも、僕はどうにも会話文がうまく書けなかった。たとえば、今の僕が小説を書いたら、以下のような感じになるだろう。
「以下の3点だわ」「君と僕(1998)」って、論文じゃないんだってーの。 ともかく、僕が会話文を書くと、ここまでひどくはないにしろ、どうにも「不自然さ」が漂う。主人公同士のコミュニケーションが静的なやりとりに終始し、とにもかくにもオモシロクない。ひとつの会話文を書くために、何度も何度も試行したことがあるが、それでもダメだった。 僕に小説は書けない。
言葉 小説 会話
2000/06/12 むなしいスケジューラーとヒッチコック 今日は某センターで12時30分から面談だった。否、面談のハズだった。眠い目をこすりこすり朝早く起きて、レジュメを用意し電車に乗り込み、その面談に向かった。
面談が行われるべき場所に行っても、面談が行われる様子はない。そうだ、スケジュールを間違ってしまったのだ。急いでコンピュータをあけて、スケジューラーを立ち上げると、そこには、なんと「一四日 ○○センター 午後12時半」と書かれてある。どうやら、「午後12時」の「12」という文字を、日にちのことだとカンチガイしてしまったらしい。
こんなことははじめてだった。疲れているのかもしれない。病んでいるのかもしれない。今まで自分のスケジュール管理には自信をもっていたので、ショックが隠せなかった。センターからトボトボと歩く帰り道、「あー」「あー」とうめいていた。梅雨のジットリとした雨粒が、トボトボ歩く僕の背中を濡らしていた。 せっかく外にでたのだからと、帰りに駅ビルのCDショップに寄ることにした。CDショップには、DVDがところ狭しと並んでいた。このところ、ものすごいスピードでDVDは普及しているというのを聞いていたから、それほど驚きはしなかった。ちなみに、僕自身としては、DVDに記録するためのDVD-Rとかのハードウェアがもっと安くならない限り、それほどそれに興味をもっているわけじゃない。でも、ひとつだけ心惹かれることがある。それはヒッチコックだ。 一般に新しいメディアが世に普及し始めると、過去の有名な作品が再販売される。おそらく、ヒッチコックの作品もそうなるか、もう既にDVDとなって販売されているのかもしれない。 ヒッチコックといえば、「ヒッチコックシャドウ」とか「サイコのシャワーシーン」で有名な「サスペンスの巨匠」である。人間の「恐怖感」をあおる演出に関して言えば、彼の右にでるものはいないだろう。ヒッチコックは生涯で53作の作品を残したが、しかし、その作品のすべてが今でも見られるわけじゃない。「サイコ」とか「鳥」とか「北北西に進路をとれ」などはレンタルビデオショップでも取りそろえているかもしれないが、マイナーな作品に関しては、なかなか見られないのだ。 学部時代、僕の同期には、生粋のヒッチコッキアンがいた。彼はヒッチコックの生涯、ヒッチコックのすべての作品のストーリー、カットなどを、あたかも僕の目の前に映像を見せるがごとく語ることができた。僕がヒッチコックを好きになったのは、彼の雄弁な語りによるところが多い。東大には個性的な、ちょっと変で、でも憎めない奴が多かった。 ヒッチコックの作品がDVDで販売されるのだとすれば、「清水の舞台からハダカで飛び降りる」覚悟で、それを買おうと思う。金が続かず、なかなか難しいかもしれないが、これは是非実行したい。否、たとえ朝昼食を一ヶ月抜くことになったとしても、実行せねばなるまい。 文化にはお金がかかるのだ。それを惜しんではいけない。
ヒッチコック スケジュール DVD
2000/06/13 テクノロジーとパノプティコン 先日、つい最近まで企業でWBT(Web Based Traning)の研究開発にかかわっていた方にお会いし、話をした。WBTっていうのは、要するに「知識を獲得したり、獲得された知識をテストしたりするWeb」ってことで、企業なんかではよく研修なんかに使われているようだ。一般にコースウェアのカタチを採用することが多く、そこでは獲得されるべき知識がいわゆる基礎基本から段階化されており、学習者はそのコースウェアに従って自分で学習を進めることができるのだという。また企業のみならず、高等教育機関における現在のヴァーチャルユニヴァーシティのシステムっていうのは、そのほとんどが、こうしたWBTシステムの変形版を使っていることが多い。 さて、こうした話しも佳境に入った頃、彼は言った。
この話をここまで聞いたとき、僕のアタマの中にはフーコーの「監獄の誕生」という本の中にでてくる「パノプティコン」の概念が浮かんだ。そして、そのイメージは、今までWBTの問題点を語っていた彼にも共有されていたようで、ホントウに同時に、以下のようにつぶやいた。
パノプティコンとは、「一望監視システム」とよばれる刑務所の建築様式のことで、ベンサムによって考案され、それをフーコーが自書で近代を語る際に、重要な概念として展開したことで有名になった。パノプティコンの刑務所では、受刑者の入っている「各棟」を監視する塔が中央にあって、そこから各棟が放射状にのびているとする。すると、各棟の様子が、中央棟からは丸見えになってしまう。さらに各棟の各部屋には、ちょっとした仕掛けがあって、その中央塔の存在を受刑者側からは見ることができない。すると、受刑者は、中央の塔から自分に注がれる視線の存在を知りながら、それを確認することができず、結局、その中央の視線を自らに内面化するようになる。要するに、非常に体のよい人間の管理システムなのだ。 ネットワークは本来ならば最もパノプティコンから遠い思想のもとに構築された人工物である。その思想は、端的に言えば、「分散性」と「協調性」そのものであろう。しかし、その使い方次第によって、それはパノプティコンそのものになってしまう。
Web Based Training パノプティコン フーコー 管理
2000/06/15 若い頃は 先日、原田宗典氏のエッセイを電車の中で読んでいて、気になるコトバに出会った。氏曰く、
なるほど。僕の好きなコトバに「人は動きの中で考える(これは本の名前)」とか「具体的な答えをだすためには、具体的に動くことだ(相田みつを)」というのがあるが、若いってことは、そういう「動き=やってみる」がいくらでも可能な時期ってことなんだろう。もちろん、「動き=やってみる」ということを極端にいやがる若者もいるし、年をとっても、動きまくる人もいるから、一概には言えない。 そんなことを考えていたら、ふと、かつて小学校の先生が僕のノートに書いてくれた詩を思い出した。
現在、僕は4つの研究プロジェクトにかかわっている。まだハッキリしたことは言えないが、また参加させていただくプロジェクトが増えそうだ。僕のようなシガナイ大学院生にとっては、オファーはチャンスである。自分にできること、したいことを見極めてキッチリとやっていきたい。今なら具体的に動くことも、そして、動きの中で考えることもできそうな気がする。
今以上に楽しい時期は、僕の短い人生の中で未だかつてなかった。
若さ 青春 やってみるということ
2000/06/16 ネット恋愛 本の雑誌「ダ・ヴィンチ」の最新号の特集は、「ネット恋愛」である。 インターネットを利用する人口が、我が国では2000万人を超えようとしているから、人々が大勢集まる場所には、犯罪も起きるし、恋愛も起きるのは、アタリマエの話だ。僕のまわりにも、「出会い系の掲示板」で出会い、つきあいはじめた男女が数名いるから、今や、そういう恋愛のカタチは常態化しているんだろう。ネットワーク上では、今日も男女が、あんなことやこんなことや、そんなことを繰り返しているんだろう。 ネットでの恋愛は、その殆どがテキスト、すなわち文字のやりとりである。 パケットに分割されネットワークを流れる男女の感情
文章にあらわれる人柄、行間にあふれでてくる優しさ。テキストを介して、男女が互いの「ホントウの姿」を想像しあい、「果てることを知らない二人あやとり」のような相互交渉が続く。 古来、日本の恋愛は和歌のやりとりを非常に重要視していたので、こうしたテキストのやりとり自体は、歴史の観点から言って、あまり新しいものであるとは言えない。見方によっちゃ「平安時代のリバイバル現象」ってとこだろう。ちなみに、僕は伊勢物語とか大和物語とか源氏物語を読むのが好きなのだが、こうした物語の中には、ものすごく切ない和歌や、思わず鼻血ブーになってしまいそうな「ウハウハ和歌」が収録されている。是非、ご一読を勧めたい。 閑話休題 僕の専門は「学習」であり、特にネットワーク上の協同学習(CSCL : Computer Supported Collaborative Learning)を今まで研究対象に選んできたけれど、ネット恋愛が盛んになっているってことで、やはりこちらの方もサポートせねばなるまい。 ここからは、研究を離れてほとんど個人的関心というかスケベ心丸出しになってしまうのだけれども、CSDL(Computer Supported Distance Love:コンピュータによる遠距離恋愛支援)の概念化をはかって、この領域の先駆者になるのも、これまた一興だと思う。 CSCLとCSDL CがDになって一文字違うだけだから、誰も気づかないかな。
ネット恋愛 和歌 CSDL
2000/06/19 曙光 今日は嬉しい知らせが届いた。 今年の1月、2月に僕は2編の論文を相次いで投稿したのだけれども、それらの論文の採録決定通知が、今日、日本教育工学から届いた。 今回採録になった論文のうち、「教師の学習共同体としてのCSCL環境の開発と質的評価」の方は、ツールの開発から研究プロジェクトの組織まで、本当にいろんな人々とのかかわりの中で研究を進めた。機材が思うように入手できず、曙光すら見えぬ時期もあったが、現場の先生方の温かいご協力もあって、何とか成果物としてまとめることができたこと、素直に喜びたい。ここで敢えて名前をあげることは差し控えるけれど、この研究に協力してくれた様々な人々に心から感謝する。本当にありがとうございました。 月並みだけれど、ひとつの終わりは、ひとつのはじまり。まだまだ、やりたいことはゴマンとある。 今日も僕は動きの中で考える。
教育工学雑誌 採録 めでたい
2000/06/20 静物 最近、コンピュータに向かいながら、テレビを「ながら視聴」することが多くなった。あまり「よろしいこと」とは言えないが、それをしないとどうにも落ち着かない。僕の「テレビ嫌い」「ながら嫌い」は結構激しいものがあり、今までこんな思いに駆られたことなんて一度もなかった。 でも我ながらオモシロイなぁと思うのは、テレビをつけていながらも、映像をほとんど見ていないことだ。必要なのは、音だけらしい。「何を言っているのか」もわかる必要はない。結局、あるのは「音」だけでよい。笑い声であろうと、森本レオのナレーションであろうと、「音」だと知覚できればよいのだ。 時々思い切ってテレビを消して、オーディオの電源を入れ、お気に入りのADIEMUS(アディエマス:最近はNHKスペシャル「世紀を超えて」のテーマ曲を歌っているグループとして有名)の透明な歌声に耳をすましてみようと思うのだけれども、それもどうも落ち着かない。 静寂な部屋を猥雑な「何か」で満たせ!
静けさ ながら視聴 テレビ 喧噪 心
2000/06/21 ゴド待ち ベケットの作品に「ゴドーを待ちながら(以下略:ゴド待ち)」という戯曲がある。僕がこの戯曲を知ったのは、恥ずかしながら大学に入ってからだ。学部時代を過ごした駒場では、毎年11月に駒場祭という学園祭が開かれ、文科3類の一年生たちは、この学園祭で「文3劇場」で演じる作品を共同製作しなければならないのだ。僕が「ゴド待ち」を知ったのは、折しもそんな時だった。 ゴド待ちの主題を要約することは簡単である。ゴドーという超越的な他者を、ウラジミールとエストラゴンが、ただただ「待つ」というものだ。「待つこと」そのことが主題であって、それ以上でもそれ以下でもない。そして、その意味するところは非常に難解だ。
二人は待つ。こうした会話を永遠に繰り返しながら、彼らは待つのだ。 待つ甲斐のある「待つ」なら彼らも報われようが、やはり彼らは待つ。「待つ」という行為には、本来、根元的な不安がつきまとうものであり、人は時にその不安に耐えられなくなることもあるけれど、でも、彼らは待つ。それにもかかわらず待つ。
彼らを支配する根元的な不安は、あなたが何かを「待つ」限り決して消えない。 五木寛之の「生きるヒント」ではないが、僕は昔からどうも「待つ」という動詞が気になって仕方がない。前にも日記で書いたが、僕は待つことの苦手な人間であり、待つくらいなら自分で動いてしまう。 この戯曲は何を言いたかったのだろうか。
待つ ゴド待ち
2000/06/23 幼い頃の記憶
幼い頃の原風景と言えば、僕はいつもこの光景を思い出してしまいます。馬がトナカイならば、その光景は、あたかもクリスマスのサンタクロースのような感じなのですが、残念ながら、馬を走らせているのは、厳しい顔をしたオジイサンでした。 でも、この光景、今から20年前の光景であるはずなのだけれど、それが本当にあったことなのか、正直、僕には自信がありません。当時、僕は幼稚園児、若干5歳ですから、記憶に自信がないのです。 僕の心の中に刻まれたこの光景は、果たして「夢」なのでしょうか。 先日、ある小説家のエッセイを読んでいたら、「自分の幼い頃の記憶がどこからハッキリしているか」ということが論じられていました。僕の幼い頃の記憶は、これが一番古い記憶のようです。皆さんはいかがですか? その光景が夢であっても、幻であったとしても、今日も僕の心の中では、ソリを引いた馬がシバレた朝を走っています。
馬 記憶 カムイ
2000/06/24 もし僕の手がココロを感じるならば ホームページをアップロードしはじめて早4年が過ぎようとしている。おかげさまで、これほど領域に特化したホームページであるのに、最近、このサイト全体へのヒットが多くなってきた。 ところで、マガリなりにも人間の認知とか心理のことをホームページ上で語っていると、ときおり、高校生などから以下のような質問をメールで受けることがある。今日も、そのようなメールをもらった。
なるほど、よくある可愛らしい誤解である。こうしたメールに対しては、「シンリガクはウラナイではないから、それを学んだとしても他人の心はワカラナイよ」と丁重に返信させていただくのだが、それにしても何度かこうしたメールを頂き、同じような返事を書いていると、こういう可愛らしい誤解がなぜ生じたのか考えさせられる。 たぶん、それはかつて一世を風靡したTV番組「それいけココロジー」とか、マスメディアに出演する一部の心理学者のせいであろうと思う。まぁ、僕としては、別にシンリガクを専攻しているわけでもないから、シンリガクが一般にどう思われていようとどうでもよい。 他人のココロ もし僕にそれがわかるのだとしたら、僕は、一番最初に誰のココロを読み解き、理解しようとするだろうか。もし、仮にそれが現実に可能なことだったとして、他人のココロを知った僕はそれで本当に幸せになれるだろうか。 自分のココロの儚さ、虚ろさ。それを十分知っている僕には、その自信がない。 それでも、それにもかかわらず、可愛らしい誤解をもつ高校生同様、僕はそれを知ろうとして、時に傷つき、時に彷徨う。 可愛らしい誤解、それは僕の誤解。
他者 ココロ 誤解 シンリガク
2000/06/25 書くこと 今日届いた教育関係のメーリングリストに、「書くこと」に関するニュースがあった。そのニュースによると、文学部の教育に「読むこと」だけでなく、「書くこと」を取り入れる試みが一部の大学で始まっているという。作家、ライター志望者が多い若者のニーズに合致したそうした動きは、大学経営の成功につながっているのだそうだ。。 なるほど、教授陣に作家やライターを起用し、書くことを教えようとするのは、確かに今までの文学部にはなかった教育内容なのだろう。僕自身は、学部1年のとき、小森陽一氏の「夏目漱石のテクスト分析」の授業を受講し、大いにそれにハマッテしまい、それからというもの事あるごとに「それってテクストだね、ポストモダンだね」とバカ丸出しで叫んでいた経験があるが、これは確かに典型的な「読むこと」の授業であった。 でも、ひとたび考えてみると、どういう風に「書くこと」を教えるのだろう、という気にもなってくる。伝えられるモノは「書くこと」の方法論なのか、ライターとしての姿勢なのか、はたまた修辞なのか、取材の方法なのか、そこのところは全然わかんない。イヤ、そもそも、書くことって教えられるのだろうか。 これは持論になるが、「書く」ためには「書く」しかない。そして、それと同時に「書く」ためには「読む」しかない。「書く」ためには、題材は何でもいいからやはり「書く」経験をどんどんつむことが必要だし、それと同時に、今までにないものを「書き」たければ、今までに存在していたものを「読む」ことが重要だと思っている。人の2倍うまくなりたければ、2倍書くしかないし、2倍読むしかない。「書くこと」が2倍うまくなるためには、人の4倍の努力をすべきではないだろうか。「書くことが苦手だ、時間がかかる」と言う人がいるが、その人は本当に「書こうとしてきたのかな、読もうとしてきたのかな」と僕は思う。 先日、ある人にこんなことを言われた。
「書く」ためには「書く」しかない。
書くこと 大学 読むこと 文学部
2000/06/30 感じるということ 最近、とみに忙しくなってきている。日記の更新は久しぶりになるのか。最近の仕事は以下のとおり。
帰阪して以来、毎日寝るのが3時か4時だ。それでも仕方がない、というより、好きでやっているのだから、楽しいし、毎日が充実している。 しかし、毎日追われているのは、かなり精神的にシンドイし、それに甘んじていては、クリエィティヴな仕事はできない気がする。だから、わずかな時間を利用して、違う世界を垣間見る。 先日、「シティ・オブ・エンジェル」という映画を見た。 ニコラス=ケイジとメグライアンが主演である。ニコラス=ケイジは街に住む天使、氏にゆく人々を迎えにいくのが彼の仕事である。一方、メグ=ライアンは群立病院で働く優秀な外科医。
彼らはひょんなことから出会い、恋に落ちるのだが、天使であるニコラス=ケイジは、彼女を「感じること」ができない。彼女の髪の毛の匂い、皮膚の感覚。彼は彼女に「触れること」もできないのだ。 映画のラストは、彼が彼女に「触れ」「感じる」ために、永遠不滅の天使を辞め、地上に堕ちる。しかし、彼がようやく彼女に「触れ、感じること」ができるようになったのに、その甘い蜜月は長く続かない。彼と彼女が一夜を過ごし、新しい朝陽が上ったその朝、彼女は自動車事故にあって、天に召されることになり、独り彼だけが地上に残される。ラストは、信じられないくらい切ない。
一般的にこれらの事柄は、意味や論理に対して低級なものと考えられている。直感や感覚は、意味や論理よりも、どこか神秘的で、人間に生得的に獲得されているもの、そして獲得の努力の必要でないものと考えられているのではないだろうか。 その証拠に「論理のトレーニング」はどこかピンとくるフレーズだが、「直感や感覚のトレーニング」はすぐにピンとこない。直感や感覚は誰にでも生得的に獲得されていると思われている傾向があるからである。 しかし、天使であるニコラス=ケイジは、「触れること」「感じること」ができない。彼には「感覚」がない。その彼の様子は、心理学をかじったことのある者ならば、一度は聞いたことがあると思われる「感覚遮断の実験」の被験者そのものである。 今回、この映画をあらためて再認識させられたのは、「触れること」「感じること」の素敵さというのか、不思議さだ。そこには、意味や論理とは違う「何か」があるのだと思う。 そういえば、学部時代の同期の女友達が、かつて安い居酒屋で飲んだくれて、こんなことを言っていた。
僕らは感じる、そして、触れることができる。同時に意味や論理をつくりだすこともできる。自ら構築した意味や論理に苦しむくらいなら、時には、感じてみた方がいい、触れてみた方がいい。それらは、時に意味や論理よりも雄弁に、何かを語りかけるかもしれない。
感覚 直感 感じること 意味 論理 |