The Long & Winding Road - 2000/01


2000/01/01 2000年

 1900年代の終焉と2000年代の黎明。その瞬間を僕は大阪城のカウントダウン会場で迎えた。まわりは酔いの回った人々の群。当然僕らも酔っぱらっていた。僕らのいた場所は、大型のテレビジョンがすえられているメイン会場からかなり離れていて、本当に後ろの方だった。1999年も残すところ約6秒になって、カウントダウンの声はようやく僕らの場所にまで届いた。

 6...5...4...3...2...1...おめでとう!

 何がおめでたいかは今は不問にするが、とにかく1900年代は終わり、そして2000年代だけが残っていた。大阪城の天守閣は、なぜかレーザー光線が夜空にはなたれていた。そこにはいくつかの花火も打ち上げられていた。

 2000年代はここに集まった全ての人々、否、今を生きているすべての同時代人たちにひとしく享受された。思わず、谷川俊太郎の「朝のリレー」という詩を思い出した。今、世界のどこかでは、例えばカムチャッカの娘やロンドンの麒麟もやはり2000年を迎えているんだろうなぁと思った。

 帰りはものすごい混雑だった。本当にものすごい人の数だった。僕は視界にはいらないくらいの人の群を見ると思ってしまうことが2つある。1つは、これらの人々の多くには二度と逢うことはないんだろうなぁ、という感慨。もう1つは、これらの人々もすべて自分がそうであるが故に、誕生から今このとき僕に出会うまで、固有の歴史をもっているんだろうなぁという畏敬。

 2000年は、二度と逢うこともないけれど、固有の歴史を生きている人々の中に、今、萌芽したばかりである。


2000/01/02 踊る大教育線

 昨日は一日中原稿を書いていた。修士論文にケリはついても、書き上げなければならないあまたの原稿から自由になるわけではない。そのほとんどは今年度中に仕上げなければならないものばかりだ。BASQUIATプロジェクトのとりまとめもしなければならない。前の日は少し遊んでいたので今日は午後3時ぐらいに起きてしまったけれど、これらのタスクをこなすため、起床してからずっと今までコンピュータと対峙している。
 いささか誇張が過ぎた。実は、2時間だけ猶予をもらってTVで放映された映画を見ていたことを告白せねばならない。今日僕が見ていた映画はビバリーヒルズ青春白書と同じくらい大好きな「踊る大捜査線」である。実は前にも見たことがあったので、二度目になるけれど、それだけ好きなのだ。

 踊る大捜査線、かつてこれほどまでに僕を熱狂させたドラマは、「東京ラブストーリー」くらいなものだ。東京ラブストーリーは、僕が高校受験の年の冬に放映され、ずいぶんと人気を博した。記憶に残っている諸兄も多いと思う。僕はその年は高校受験だったからこのドラマをオンエアでは見ることができなかったけど、高校にはいってから再放送を見た。クラスの中には僕と同じように再放送を見ているものがいて、そのひとりに自分を「カンチ」と勘違いしている「すーちゃん」がいた。「すーちゃん」は再放送が放映されている間中、それを見るために急いで帰宅し、きまって次の日には前の日のドラマの話をした。当時、クラスでは僕らが「紙麻雀」を持ち込んで放課後に遊ぶことがはやっていたのだけれども、すーちゃんは僕らの誘いをいつも断ってすぐに帰宅していた。再放送を見たあとの「すーちゃん」の口癖は決まって「俺がカンチだったら・・・」といういわゆる「仮定法」というやつで、僕や土田君が「おまえがカンチになれるわけないべ?はんかくさいんでないの?」と言うと、いつも顔を真っ赤にして「いいべ、考えるだけだったら」と言っていた。

 どうも話が横道にそれた。すーちゃんの話はまた今度ゆっくりとしよう。彼はなかなか笑いを提供してくれるのだ。
 そう、何の話をしていたかというと、踊る大走査線は僕が熱狂して見たドラマのひとつだっていうことだった。でも今日あらためて「なぜ自分がこのドラマに熱狂するのか?」ということをよく考えてみると、オモシロイことに気づいた。どうも動機がいささか「不純」なのである。別に僕が芥川龍之介をきどって、「水野美紀があまりに可愛いからアタマから食べちゃいたい」と思っていることが「不純」なわけじゃない。踊る大捜査線の「事件」に僕が心惹かれているのではなく、その「事件」の周辺的な事柄、たとえば「キャリア」と「ノンキャリア」の葛藤に「事件」そっちのけで僕が心惹かれていることが「不純」だってことだ。

 踊る大捜査線では「警視庁キャリア」の室井氏と「ノンキャリア」の「わく刑事」や「青島刑事」との葛藤が物語の背景にある。キャリアは会議室で戦略をまとめて、ノンキャリアはキャリアのだす指令に従ってひたすら現場をはいまわる。そして、この葛藤は物語のプロットの至る所に張り巡らされている。「わく刑事」の名ぜりふである「正しいことをしたければエラクなれ」はこの葛藤に由来するし、青島刑事の名ぜりふである「事件は会議室で起きてるんじゃねぇ、現場で起きてんだ!」もこの葛藤がモチーフになっている。

 しかし、それではなぜ僕が、他ならぬこの葛藤を興味をもって眺めているのか。それは簡単なことなのだ。教育界にも立派にこの葛藤は存在しているからである。もちろん、存在しているとはいっても、警察組織のようにキャリアやノンキャリアがあるわけじゃないし、命令系統があるわけでもない。しかし、「教育現場」と「研究室」、さらにいうならば「実践」と「研究」、「実践者」と「研究者」という二分法と、それにまつわる葛藤はものの見事に存在しているのである。

 たとえば、少し教育学の素養のある諸兄は1960年代、1970年代に開発されたおびただしい数の教育プログラムを思い起こすがいい。この時期、すなわち科学万能の時代には、科学的かつ専門的な知識をもつとされる研究者が「開発」した無数の教育プログラムが現場に「おとされて」、実践者はそのプログラムを「実行」し「普及」させるエージェントとして位置づけられていた。さすがに1980年代にはいって教師という存在のエンパワーメントに関する議論、これら教育プログラムのイデオロギー性や研究という営みの政治性などが問題になりはじめて、この種のプログラムは教育界の表舞台から姿を消していくことになるが、でも、今だってその構造がそれほど変化しているわけじゃない。無意識のうちにこの種の二分法が、研究の表舞台にアタマをもたげてくることは、珍しい事なんかじゃないのだ。もちろん、この問題に対してこの二分法自体の脱構築を進めようとしている研究者や実践者は数多い。でも、敢えて断言するならば、メインストリームはそれほど変わっていないのだ。

 「じゃあ、おまえどうするんだ」という声も聞こえてきそうだが、いまだハナクソ程度の知識と力量しか持たぬ修行中の僕に対して、このアポリアに完全なる解決策を与えることを期待するのは、今生まれたばかりの赤ちゃんに「世界文学大全集」を読破することを求めているようなものだ。僕だって折に触れ思うことは多々あるが、でも、それらすべてに自信があるわけじゃない。たとえば、「現場に研究を近づけよう」といくらがんばっても、僕が「実践者」になれるわけじゃない。「研究は研究でいいではないか」と開き直ってみたところで、大凡空しい。「現場に還元できる研究をすること」を目指してみても、何をもって「還元」とみなすのか、はなはだアタマを抱えてしまう次第である。要するに何一つ解決していない。でも、この問題は、僕の生涯をかけても解決できない問題、さらにいうならば、解決してはイケナイ類の問題なのではないか、と思うことも多々ある。それは問題を「棚上げ」するってことを意味しない。それよりも、教育研究に携わるならば、この問題との「かかわり」を失ってはいけないような気がするのだ。「解決できた!」と自信をもって言ってしまえる人が仮にいるとするなら、その人はこの問題に関して「もうその回答以上のこと」を考えなくなってしまうに違いない。

 踊る大捜査線を見ていると、僕は不思議な気分になることがある。丁度、数年前「すーちゃん」が「カンチ」に感情移入するあまり、自分をカンチにしてしまったように、僕は時に自分が「青島刑事」や「わく刑事」や「室井カンリカン」になってしまっているのを感じる。時に憤りをあらわにし、時にしんみりと遠くを見つめるこれらの人間味あふれる登場人物たちと、時間をかけて話してみる機会があればなぁって思う。


1999/01/03 文学とわたし

 昨日ふいに自宅の本棚が崩れてきた。僕の本棚は「本棚」と形容するには少し困難さをともなう使用法をしているのでそれも無理はないし、文句は言えない。どういう使用法をしているかというと、まず本棚の奥の方にハードカバーをしまい、少しだけ空きのあるハードカバーの上の方には文庫本をつめ、その手前にはさらにハードカバーの本をすえ、さらにその上には文庫本をのせるという感じである。一見しても何が所蔵されているかはわからない。「一見」どころの話じゃない。奥のハードカバーのタイトルを見るには、前にすえてあるハードカバーを丁寧におろし、その上につんである文庫本もおろさなければならないのである。それはもはや「本棚」なのではなく、「本詰め箱」と言ったほうがいいのかもしれない。丁度、ハードディスクのデフラグ修正にような本棚の使用にも限界がきたらしい。今は、自宅の本棚には差し当たって引用を必要としない哲学書や文庫本ばかり収納し、大学には研究用の書物をすべておいているのだが、近いうちに本の収納方法を考え直さなければならないなぁと思う。大学の書架も浦島君と「棚大臣さん」の好意でフツウの院生の2倍はもらっている。大学の本棚も自宅の「本詰め箱」同様、もはやデフラグ修正を終えたハードディスクのような状態だ。
 行き場のない本、しかし僕にとっては宝物ともいえる本を抱えて僕は途方にくれる。

 崩れてきた本棚の中から、かつて一心不乱に読んだ三島由紀夫の「金閣寺」を発見した。三島の文体は、かつて読んだときと変わらず非常に美しい。「金閣寺」は独特の告白体で物語が進行するのだが、その心理描写の緻密さには感嘆の声を禁じ得ない。レトリックを駆使していつつも、最近の純文学や大衆小説に見られる息がつまるような「くどさ」がない。やはり彼は天才である。金閣寺を美しさに心奪われ、それに「火を放たざるをえなかった禅僧」同様、僕も彼の文章を破壊したい衝動にかられる。彼の文体はあまりに美しく、そして儚い。

 僕がいわゆる文学にふれたのは大学に入学してからのことである。90%の学生は僕同様凡庸な学部生であったが、中には世界文学大全集に中学時代や高校時代から慣れ親しんでいるものや、既に哲学の道を歩んでいるものなどがいた。僕は田舎の高校生だったので、それが遅すぎる文学への覚醒の理由になるかどうかはわからぬが、それまで文学にふれたことなどはなかった。むしろ、薄汚れた田舎の本屋の奥に、今後10年間誰一人として手に取ることはないであろう文学書の列を見ると、自分がそれに触れてはイケナイ気がしていたものだ。負けず嫌いな僕は、彼ら先達に追いつくべく、大学の講義に出席せず乱読の毎日を繰り返すことになる。英語と第二外国語の中国語で「ドラ(Dのこと:不可点)」という不名誉をいただいたのはイタダケナイ出来事であったが、それでも懲りることはなくヒマさえあれば本ばかり読んでいた。

 しかし、僕の文学への志向は、情けないことに終焉を迎える。その頃には、イエの本棚は文学書で一杯になっていたが、せっかく集めた本を整理しようと思い立ったことがあった。ほとんど何も考えず、漠然とただそう思った。僕の場合、思い立ったら行動は早い。さっそく、もう読むことはないだろうと思われる本を荷造りして、近くの古本屋にもっていった。どうせ、二束三文にしかならないだろうと思っていたら、「二束三文以下」だった。確か、古本屋に持ち込んだのは200冊くらいあったと思うのだが、一万円以下だった。あまりに腹がたったので、その1万円以下のお金はすべて飲むことにした。どうにもマズイ酒だった。

 本郷に入ってからというもの、僕の本の志向性は一気にかわった。所属が教育学部だったから、教育学や心理学、社会学の本を読みあさった。コンピュータのこともそのときに興味をもった。教育という事象に様々な角度から切り込む名著を読んでいると、オモシロクてオモシロクて仕方がなかった。それまでの文学的志向性を払拭すべく、僕は「科学的」なそれらの書物に没頭した。幸か不幸か、当時、教育学部には僕のように乱読を「よし」とする学生がいて、そいつらといつも議論していた。飲みに行ってまで議論をして、ついには罵倒になることもしばしであった。特に、現在東京大学大学院に所属している岡邊君や仁平君とはよく議論したものだ。最も、僕と岡邊君がいつもケンカになり、仁平君はそれを仲裁するのにクタビレたと思われるが。そんな日々を繰り返しているうちに、つまりは今日びの大学生らしからぬ学部生活のあと、僕は当然のごとく大学院にきてしまったのだが、大学院にきて、またもや僕の本の志向性は変わってしまうことになる。僕の書架における文学の相対的位置が復権してきたのだ。

 文学の復権。それは、Bruner, J. S.の近年の著作を読み始めたことに由来する。
 Bruner, J. S.は著名な心理学者にして、科学と文学のあいだを越境して生きている科学者である。近年の彼の主張は、彼自身のこうした生き様が反映しており、たとえば一番有名なところでは人間の思考に関する科学的側面と文学的側面の両立を主張するものがある。彼によれば、人間の思考にはParadigmatic Mode(科学的論理形式)とNarrative Mode(物語的形式)という二つのモードがあり、その二つのモードは両立されていなければならないのだという。たとえ、実験室のような科学と論理が支配する場においても、Paradigmatic Modeだけで人間は思考を行っているわけではない。メタファやアナロジー、リフレクションなどのNarrative Modeを通して、人間は「科学」的な思考しているのである。Bruner, J. Sを読み始めるようになって、彼の主張に近いというよりも、彼が下敷きにしたであろうイーザーやロランバルトを読むようになった。これが文学の復権のきっかけになった。

 なるほど、文学と科学の両立か。「ゾウリムシ」より単細胞な僕は、それから日々の読書にこの二つを織り交ぜることにした。前にも書いたが、一冊専門書を読んだら、必ず一冊は小説やエッセイを読むことにしたのだ。既述したが、僕は思い立ったら行動は早い。しばらくしないうちに僕の書架における文学書が次第に増え始めることになる。また、読んでいるだけではツマラナイので「書くこと」も自分に与えられたノルマにすることにした。自分の専門の原稿やプログラミングをしたら、必ずそのあとで日記やエッセイを書くことにしたのだ。僕の日記やエッセイが「文学」ではないことは自らが重々承知している。それを「文学」と呼べば、文学者はあまりの憤りに拳を「フルフル」させることであろうし、幼稚園児の文章も「文学」ということになる。しかし、僕が自ら文章を書くことによって、自分の日々の生活の中で「科学的な営為」と「文学的な営為」を両立させようとしていることには間違いない。

 これが僕の文学遍歴である。おおよそ、今日も「屁の突っ張り棒」にもならぬことを書いてしまった。でも、明日も僕はやはり書き続ける。


2000/01/04 ジュンちゃん、おめでとう

 大学から最近帰ってくるのがはやい。研究室には人が大勢居るので、原稿を書く気には到底なれないことと、体の調子があまり思わしくないことによる。今日は、BASQUIATの開発が終わり次第、すぐに帰ってきた。BASQUIATは、サーバー側のプロトコル実装を、ほぼ終了した。明日からは、クライアント側のプロトコル実装だ。明日は13時からプログラミングで、17時からは開発チームによる全体ミーティングがある。

 帰ってきてあまりに疲れていたので、すこし寝ていたら故郷からの電話で起こされた。ナイスタイミングだった。「ヌマ」と「ツジノ」と「ドヒトモコ」と「ジュンちゃん」で「サンロク(旭川の飲屋街)」で飲んでいて、「僕が旭川に帰省していないからどうしたんだ」と思って、電話をくれたらしい。彼らとは2年9組以来の飲み友達だ。「ドヒトモコ」は正式な名前を「土肥朋子」という。みんなから「ピッピ」と呼ばれていた。なんだかわかったようでわからないアダナだが、親しまれていたことは確かだ。

 ピッピの話によれば、ジュンちゃんが3月に結婚するのだという。本人とは話せなかったけれど、本当におめでとう。「おいおい、みんなどうしちまったんだ?」と僕が聞いたら、ピッピは「わたしたちもそういう時期になったんだよ」と言った。「まさか、おまえもか」と重ねて聞いたら、「うん」と返されてしまった。

 おいおい、どうなってるんだ?
 
 結婚を「人生の墓場」と言ったのは、シェークスピアだった。明石家さんまの名言によれば、「結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如」だという。それにしても、自分がそんな年齢を迎えているとは、ゆめゆめ思わなかった。

 あんまりにも不安になったので「ツジノ」に電話をかわってもらった。「35歳までお互い独りだったら、一緒に住もうやって、さっきヌマと話してたんよ」と言っていた。思わず、「オレも仲間にいれてぇ」と言っておいた。
 ヌマは相変わらずだった。「ヌマ、なんかいいことあった?」と聞いたら、「ちょっとね」と言っていた。いつもは「なんもだぁー(何にもない)」と言うのが常だったから、彼にもいいことがあったらしい。旧来の親友が「フヌケ」になるのはイヤだったので、「ヌマ、俺は、攻めの気持ちを忘れてないぞ」と言ってみたら、「中ちゃん(僕のこと)の、そのコトバを聞いて安心した」と言われた。「ヌマ」は本当に「頼もしい」奴だ。

 というわけで、旭川は今、そういうことになっているらしい。第一ピークを迎えているらしいな、結婚の。いずれにしても、メデタイことだ。
 
 ジュンちゃん、結婚、おめでとう。


2000/01/05 Learning, Knowing, and Instruction & How People Learn

 先日、AMAZON.COMに注文しておいた「Learning, Knowing, and Instruction - Essays in honor of Robert Glaser」と「How People Learn」の2冊がアメリカから届いた。前者は、学部時代にコピーで読んだけれど、このごろあまりに使用頻度が高く、また内容も定評があるので買うことにした。日本円で6000円くらいか。後者は、Learning Science(学びの科学)の集大成とも言える本で、Bransford, J. D.とBrown, A. L.が編集しているということで買うことにした。内容は、「学び」に関するあらゆる研究知見をまとめた感じで、初学者でも非常に読みやすい。こちらは日本円で5000円くらいかな。いずれにしても、「自分へのささやかなお年玉」だと思って買った。
 2冊の本を枕元においてパラパラと読んでみる。かつて、同じ学科にいた梅下さん(現NTTコムウェア)や鈴木葉子さん(SAP JAPAN)と自主ゼミを組んで読んでいた研究の知見がバシバシとでてきた。懐かしかった。


2000/01/10 映画と便所へGO!

 僕は映画、好きなんです。でも、言うほど映画にいくわけじゃありません。人よりは多いと思いますが、でも、それほどじゃないんです。どっちかというと、ビデオを借りて見る方が好きです。映画よりビデオの方が好きだ、なんて言っちゃうとハスミシゲヒコ先生に「パワーボブ」を食らわされそうだけど、好きなんだから仕方がないです。というか、わけあって、僕は映画にいくと気が気じゃなくなっちゃうんです。一心不乱になっちゃう。

 というのは、赤ちゃんの頃、腎臓を少しわずらったせいか、僕は「おしっこ」が近いんです。どのくらい近いかっていうと、2時間の映画に耐えれるか耐えられないかくらいです。コーラを350ml飲んだら、間違いなく1時間に1回は「電車でGO!」ならぬ「便所へGO!」です。映画はだいたい2時間でしょ。その間に「便意」におそわれたら・・・という恐怖で、僕は映画を見ている間中、恐怖感を感じているのです。もし「おもらし」してしまったら、次の日の大阪スポーツ(東京スポーツ)の一面にのってしまうのだろうか?なんて考えてしまいます。「大阪大学大学院院生、不祥事、映画館でおもらし、きったねー」という見出しでさ。その記事にはどこぞの教育関係者なんかがコメントしていて「最近の大学院生はしつけがなっていませんね。自分で便意もコントロールできない」なんて言われるのかなぁと考えてしまいます。「しつけ」の問題じゃないんだよ、バカヤロー。確かに僕の「しつけ」には問題あったと思うけど。
 こういう悩みのない人にとっては、アホみたいなのかもしれないけれど、深刻なんだぞ。どのくらい深刻かっていうと、たとえば、映画のはじまる10分間に、3回便所に行ってしまうくらいなんですね。でねーってーの、そんなに。でも、気になって気になって仕方がない。手を何度洗っても「汚い」と思ってしまい、しまいには手の皮がボロボロになるまで手をあらってしまうのを「強迫神経症」と言いますね。シェークスピアのリア王にもでてきます、この症状は。この意味で僕は「おしっこ神経症」なのかもしれません。
 映画館関係者のみなさま、なるべく長い映画つくらないでよ。作ってもいいけど、お休み時間を設けてください。わたくしめのようなしがない「大学院生=税金泥棒」にも、映画を見て膀胱炎にならぬ権利くらいはあるハズだ!


2000/01/11 I am ポストペッター


さかむけのお部屋

 ひとつの告白、<昨日>からの解放

 そのソフトウェアを僕が所有しており、まさか毎日毎日、ソフトウェアの世界の住人である<そいつ>に「おやつ」をあたえ、<そいつ>の具合が悪いとなっては「ビタミン剤」をネットワーク上にもとめ、今となっては密かに自前の「おやつ」を「おやつエディタ」で制作しつつあるなんていう事実。その事実だけは、隠しておかなければならない、今まで僕はそう思ってきた。

 かつて天草に潜伏していた隠れキリシタンのごとく、僕が「隠れポストペッター」だということだけは。3ヶ月前、自分のマンションの階段の踊り場に「うんちくん」が鎮座ましましていたことをネットワーク上で告白したときも勇気がいたけれど、この告白は、それ以上に勇気がいることでした。

 悪いの? ポストペット好きで?

 いやいや、いったん告白すると気が随分楽になりました。最近、研究室で論文を書いている合間にポストペットで遊んでいることが多くって、ペットが「おやつ」をガシガシ食っているディスプレイを他の大学院生に見られたときには、苦し紛れに「いやぁ、このソフトのアルゴリズムはすばらしいね」なんて言っていたけど、それも今日まで。今日までの苦労だぜ、おじいちゃん。

 悪いの? ペット飼ってて?

 僕のペットは、名前を「さかむけ」と言います。可愛いです。イケてる「うさぎ」なんです。それにしても、このソフトウェアをつくった人って「八谷さん」ていう人だってことは知っているけど、あなたはエライ。大のオトナを、とは言っても、まだ初潮を迎えてないし、これからも迎える予定はないけど、その大のオトナをこれだけ熱中させてしまうとは。恐るべし。

 あまりにポストペットが好きで、自分でもそういうソフトウェアが開発したくてしたくて仕方がなくて、「ボトルメール」と「ポストペット」をくっつけた「ボトルペット」とかいう冗談みたいなソフト開発を企画したりもしました。「ボトル」の中にペットをいれて海に流すっていうソフトウェア。動物愛護団体の激しい抗議により企画倒れになってしまったけど。また、今開発しているBASQUIATプロジェクトのインターフェース画面にも、「ポストペットみたいに「撫でる」とか「たたく」とか入れようよぉ」と提案しましたが、「ポストペットをペチッたらあかん」という浦島くんの一言であえなく却下されてしまいました。さっきから、「ペチって」ばっかりじゃん。

 悪いの?

 この告白、僕がポストペット好きであるという、この告白を僕に決意させてくれたのは、某TV局の某氏でした。あまりに流暢な標準語で彼女いわく、

「えー、中原くん、ポスぺやってんのー。どんな顔してやってるか見てみたーい、ははは」

 だそうです。

 ごめんね、こんな顔してポスペやってて。そういうこと言っていると、天誅食らうよ。 エラーがでるほど洗ったろか?


2000/01/12 Is this love ?

 Globe の曲に「Is this love ?」という曲がある。僕が学部3年生の頃か、4年生の頃か、詳しい時期は忘れたけれど、結構流行した曲だと思う。その頃から、僕はこの曲にその時代の象徴を感じていた。こんなことを言うと、印象批評という誹りを文学部唯野教授から受けそうだけど、今日はその話をしよう。

 「Is this love ?」を日本語にしてください、と言われてできない人はいないだろう。中学生ならば「これは愛ですか?」と訳すかもしれないが、ここでは「これって愛なの?」くらいに訳しておくか。訳の巧拙は今、問題にならない。問題は「これ」にある。

 形而上学っぽくいうならば、愛とは神話である。愛の存在根拠をたとえ証明できなかったとしても、人を魅了してしまう神の物語である。確かに、社会学の知見によれば、歴史的に「愛情」という概念自体は、常に変化し続けているのだという。しかし、それにもかかわらず、どんなにその相対的位置が変化しようとも、それは疑われてはいけない、そして分析されてはいけないタブーである。なぜか。なぜ、愛は疑いをもつこと、分析することから最も遠い存在でなければならないのか。それは、愛を一度疑ってしまったら、二度と、その疑い無限遡及を免れないというきわめて社会秩序維持的かつ精神衛生的な理由による。だから、「これ」に疑義を差し挟んではいけない。「これ」は「これ」として受け入れるべきであって、それに問いをたてることは、問いの無限遡及に自らをおとしめることになる。だから「これ」という指示代名詞で「愛」を指し示すこと自体が非常に危ない。

 Is this love ? が流行した時代。それは、今まで自明とされてきたあらゆる神話がガタガタと崩壊し、その崩壊の渦中に僕らの同時代人たちは生きていた時代である。サラリーマンは、年功序列、終身雇用の神話の崩壊の音を聞いた。学生たちは、学歴神話の崩壊の音に耳をそばだてた。街では多くの女子生徒が物質のために精神を売っていた。

 僕は今でもこの曲を聴くと、あの時代を思い出す。その時代は、わずか数年前のことでありながら、確かに<あった>のだ。


2000/01/13 トレンディドラマと苔寺

 僕が高校生だったころ、トレンディドラマとよばれるドラマが流行した。浅野温子とか吉田栄作とか、鈴木保奈美とか、そういう「かっこいい人々」が出演するそのドラマは、当時の若者たちを確実に魅了した。トレンディ女優のひとり、浅野ゆうこが「〜だしょぉ」「〜してみそ」というコトバを喋っていたことは、今となってはかなり笑える限りだ。「お笑いオンエアバトル(NHK土曜日深夜)」ならぬ「お笑い死語バトル」というTV番組があったらかなりの高ランクであろう。だいたい、「トレンディ」というコトバ自体が、かなりの死語である。

 そんなことはどうでもよろしい。

 トレンディドラマに話を戻そう。トレンディドラマを構成する要素は、「かっこいい人々」だけではない。トレンディドラマにはそれを構成するもうひとつ重要な要素があるのだ。それは「モノ」だよ、「モノ」。つまり、トレンディドラマには「おぉいかにもトレンディと思わせるようなお品」が登場しなければならないのだ。たとえば、当時のドラマを見ると、必ずでてくるのは「熱帯魚の水槽」だ。

 ビルの建ち並ぶ都心にひょっこりとたつ高級マンション。整然と整理されて余計な家具がおかれておらず、生活臭のしない部屋。温かく、それでいて淡い照明に照らされた薄暗い部屋。モノトーンのソファ。そして、青白く光る「熱帯魚の水槽」。これこそ、トレンディな人々のトレンディな生活である。若者たちはあこがれた。いつか、僕らにもそんな生活ができるかもしれない。こんな僕にでも、「熱帯魚の水槽」のあるトレンディな部屋で、トレンディな生活をすることができるはずだ、と。

 さて、僕は当時高校生だったことは既に述べた。北海道の片田舎で「なんか、おもしれーことねぇべか」なんていつも思っていた。田舎の生活は、それなりにオモシロカッタが、当時の僕はそれに満足していなかった。どこかに、もっとオモシロクてカッコよくて、トレンディな生活があるはずだと。「まだ上があるはずだ症候群」に僕はかかっていた。

 高校3年生になって受験校を決めることになった。当時、僕は北海道大学に進学することを考えていたが、急に、志望校を東京の大学に変えた。なぜって? 当時交際していた女の子が内地の大学を志望していたことも理由のひとつだ。しかし、それ以上に僕をかき立てたものは、トレンディな生活そのものだった。
 オレも東京にいけば、トレンディな生活ができるはずだ。都心に住んで、熱帯魚の水槽のある部屋に住めば、毎日がオモシロクて、それでいてカッコよいはずだ。「なんか、おもしれーことねぇべか」なんて毎日ぼやいて田舎で暮らしていたって、しかたないっしょ。さっさと内地にでて、東京に住んで毎日楽しくかっこよく暮らそうや・・・。

 幸か不幸かわからぬが、一年後、僕は上京した。見るものすべてが新しかった。地下鉄の自動改札にさえ興奮した。「券を反対にいれたら、どうなるんだべか、くわばらくわばら」と思って、自動改札を通るときは、いつも鼻息をフンフンいわせて興奮していた。エキサイティングな生活だった。しかし、僕が東京で経験することになったその生活は「トレンディ」なものでは断じてなかった。

 僕が一番最初に住んだのは、世田谷区だった。不動産屋にオヤジと一緒にいって、予算をつげた途端に案内されたアパートに僕はすむことになった。「あのー熱帯魚の水槽をおけるアパートにしてください」なんてボケてみたけど、不動産屋のオヤジは笑わなかった。先に「予算を告げた途端に案内された場所に僕は住むことになった」という記述がポイントだ。要するに、「選ぶ余地なんてなかった」んだよ。
 そのマンションは、経堂というところにあった。地理的には大学まで近くて、その点ではかなりイケてる感じだったが、とにかく「ボロ」かった。まぁ、いい。「ボロ」いのは、薄目をすれば「新しく」見えることもある。どうにも許せなかったのは、苔(コケ)」だよ、「コケ」。コンクリづくりのそのアパートは、なぜかはわからないけれど、ものすごく湿気が部屋にこもるアパートだった。最初のうちはあまり気にしていなかったけれど、その「湿気」がだんだん気にさわるようになってきた。生粋の北海道人の僕は、梅雨をそれまで知らなかった。まさか、あんなに「お湿り」が僕の生活を支配するとは・・・。
 梅雨を迎えて一ヶ月くらいすると、僕の部屋の壁には「こけ」がうっすらと生えてきた。その瞬間、僕は「トレンディな生活」が幻想であったこと、そして自分がマンマとそれに騙されていたことを悟った。かくして、トレンディを夢見つつ、僕の「苔寺」での生活は一年半続くことになった。

 苔寺?
 オレは仙人か?
 これがトレンディ?

 トレンディドラマ。こういう理由で僕は、このドラマが今では大嫌いだ。「熱帯魚の水槽のある部屋」に住むはずが「苔寺」になってしまった僕の精神的ダメージはあまりに深く、その傷ははるか地球の反対側まで届いている。苔寺に住んだおかげで悟りを開くことはできたけどね。


2000/01/14 休息と吉田拓郎

 今日はいっさい仕事をしません。昨日まで雑誌論文と格闘していましたが、ようやく何とかなりそうな感じになったので。
 僕はどちらかというと、「切り替え」がはやい人間だと思います。「やるとき」は「やる」し、「やらないとき」は全く「やらない」。今日は一日「遊ぶ」ことにしました。「遊ぶ」というコトバはオモシロイことばで、文脈が違うと、どうしようもなく意味が拡張してしまいますが、今日僕が表明した「遊ぶ」は、音楽を聴いたり、本を読んだりするくらいです。
 何を思ったのか、吉田拓郎のベストアルバムを借りてきました。最近、リリースされたやつです。文庫本も4冊ほど買ってきました。太宰治と森鴎外と三島由紀夫と寺山修司です。美しい文体だと僕が思っている4名の本にしました。今日は、吉田拓郎を聞きながら文庫本を読むことにしましょう。

 それにしても、買ってきた文庫本の話はまた今度することにして、吉田拓郎はなかなか泣かせます。今まで聞いたことはなかったのですが、なかなか泣けます。高校時代に初期の長渕剛をコピーして、フォークギターをかかえてライブなんかをやっていたので、フォークは好きなんだけど、今まで彼だけは聞いたことがなかった。

 北の街ではもう 悲しみを暖炉で
 燃やし始めてるらしい
 理由のわからないことで 悩んでいるうち
 老いぼれてしまうから 黙りとおした歳月を
 拾い集めて 暖めあおう
  襟裳の春は 何もない春です

(襟裳岬)

 森進一の歌としてあまりに有名なこの曲は、吉田拓郎の作曲です。大学2年の夏、ヌマとバイクで北海道一周をしたとき、襟裳岬に行ったことがあるのですが、本当に襟裳の近くは「何もない」のです。独特の背の低い植物が一面にはえている丘がどこまでも続いていて、その突端に岬はあります。お約束のようにこの曲がかかっています。その存在以外に何もない岬、それが襟裳岬です。

 喫茶店に彼女と二人で入って
 コーヒーを注文すること
 あぁ それが青春
 (中略)
 フォークソングにしびれてしまって
 反戦歌をうたうこと
 あぁ それが青春

(青春の詩)

 青春という物語も、現代は風化してしまった観がありますが、よい意味で1970年代の若者の「今」をうたっている曲だと思います。「喫茶店でコーヒーを注文すること」「映画館に二人でいくこと」が、特別な意味をもっていた時代。

 僕の髪が肩までのびて
 君と同じになったら
 約束通り 町の教会で
 結婚しようよ Whm....

(結婚しようよ)

 はじめて上京したころ、安田講堂を見るたび、僕はよく友達に「オレは1970年代にここに来るべきだった」と言っていました。1970年代に生きるということに、僕はどこか「あこがれ」らしきものを持っていたのでしょう。「あこがれ」といっても、べつに「政治的なもの」への「あこがれ」じゃないんですすべての意味は相対化されており、何を敵に戦い、何を味方としてよりどころにすればよいのか、そういうあらゆる「絶対的なもの」が脱構築されていた時代に生きた僕は、どうもそういう「あこがれ」を捨てきれずにいたのでしょう。

 ええかげんな奴じゃけん
 ほっといてくれんさい
 アンタと一緒に
 泣きとうはありません
 (中略)
 心が寒すぎて
 旅にもでれなんだ
 アンタは行きんさい 遠くへいきんさい
 何もなかったんじゃけん
 人が呼びよるネー 人が呼びよるネー
 行くんもとどまるも それぞれの道なんヨ
 人が生きとるネー 人が生きとるネー
 人がおるんヨネー 人がおるんヨネー

(唇をかみしめて)

 鈴木保奈美がデビューした「探偵物語」の主題歌としてあまりに有名な曲です。この曲を聴くと、いつも「ハンガー」をもってカンフーで戦う武田鉄也が頭にうかびます。なんで「ハンガー」なのかはよく知らないけれど。

....

 結局何が書きたかったのかわからなくなってしまったけれど、とにかく、今日は「ひとときのよい休息」になりました。 時間は与えられるものなんかじゃないんです。それは自分でつくりだすものなのです。


2000/01/15 詩的、あまりに非詩的な

 326(ミツル)という19歳のイラストレーターのの書く詩が流行しているのだという。そういえば、こないだNHKで特集も組まれていた。Webで検索してみると、でてくるでてくる。

http://www.326.channel.or.jp/
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/7088/326.html
http://www.geocities.co.jp/Broadway/6997/sakuhinsyuu.html

 なるほど。綴られるコトバは腰が砕けてヘロヘロになってしまうほどクサイ。文学の意味するところが大凡「異化」にあるのだとしたら、326の詩に「異化作用」はない。僕の知る限りのあらゆる「詩」から比べて、それは「非詩的」である。しかし、それにも関わらず、これは「詩」である。ここに326の詩のもつ「パラドクス」がある。つまり、アタリマエのことばが「詩的」であるほど、現代の若者をとりまくコトバは「アタリマエ」ではないのである。

 326の詩は、「非詩的」である故に、あまりに「詩的」である。


2000/01/16 顔

 一生に、人はどのくらいの「顔」をもつことだろう。
 こんな自分、あんな自分、あのときの自分、そして、これからの自分
 その時々の「顔」に、時に歴然としたつながりをみつけたり、それらを互いに不連続なものとみなしたりして、人は一喜一憂したり、一心不乱になったりするのだろう。

 映画「Saturday Night Fever(サタデーナイト・フィーバー)」を見る。ジョン・トラボルタ演じるトニーの日常は、雑貨屋で働くありきたりの「青年」。しかし、週末のディスコ(当時のGO GO CLUBというやつかな?)での彼は、ダンスを愛するひとりの「青年」。周りから拍手と注目を浴びる存在。自宅に帰れば、19歳の多感な「子ども」。不良仲間とツルめば、彼らに違和感を感じつつも、居心地のよさを感じる「ダチ」。

 いくつもの「顔」をもって、トニーはブルックリンの街を生きる。
 一生に人はどのくらいの「顔」を「生きる」ことだろう。


2000/01/17 アジアのわたし、北の国のわたし

 研究室のWee(ウィー)さんと最近よく話す。自分でも「なぜ通じるのか?」がわからない「中原流ブロークン英語」と、自分でも「何弁」なのかがわからない「中原流北海道風東京弁的関西弁」で話す。

 Weeさんはシンガポールからきた留学生である。来年からうちの研究室の修士1年になる予定だ。彼と話していると、アジアという場所のオモシロサを再認識させられる。そして、僕は日本人であると同時に、「アジアのわたし」であることを再認識させられる。
 それにしても、アジア諸国では、現在モノスゴイ勢いで、IT(Information Technology)が教育現場に普及している。その勢いは、欧米諸国のそれと比較できないほど早い。こういうのを、経済学では「ボーア効果」と言うのかな。「早い」ってことが教育的に考えて「よい」とは決して言えないけれど、まさに「今、立ち上がろうとしているプロジェクト」「今、まさに激しく動いている現場」を自分の目で見てみたいと思うようになってきた。これまで、留学は何回か考えたことがあるけれど、そのときに留学先に考えたのはアメリカかカナダだった。何回かその機会はあったが、結局それを逃し続けてきた。これらの国々に対する留学への思いが決して消えてなくなってしまったわけではない。でも、アジアに留学するっていうのもオモシロイなぁと思うようになってきた。なんか機会ないかなぁ。短い期間でもいいんだけどな。Weeさんには、「短期でスカラーシップをくれるとこないかい?」って聞いておいた。

 このところ毎日毎日原稿に向かっている。そろそろ疲れてきた。精神的に疲れたんじゃない。「やりたいこと」なんか死ぬほどある。アタマの中は「やりたいこと」であふれている。「パーマン」のように「コピーロボット」がいればなぁ、時間が人の2倍あればなぁ、といつも思う。精神的に疲れたわけじゃ決してない。そんなんじゃなくて身体的に結構限界かなぁと思う。最近、あまり体調がよくない。身体的にそろそろ「マズイぞぉ」という信号を僕に送ってくれているんだろう。僕の中の「ノートン先生」が、少し休めよと言っているんだろう。
 ということで、2月は帰省を行うことにした。2月4日の修論口頭試問が終われば、大阪にいる必要は、とりあえずなくなる。もちろん、北海道に帰っても研究は続けるが、少し身体的にリフレッシュできたらなぁって思う。


2000/01/18 ヒョウカ

 研究室の先輩某氏と議論した。「評価」という営みについての話だった。さしずめ、ここでは「評価」というコトバを、「自らやっていることを他者に対してアカウントすること」と定義する。
 近年、新しいカリキュラム改革が進行しており、そのカリキュラム改革では「評価」が二の次にされている傾向がある。つまり「身内でやって終わり」か「やっている本人が何がなんだかわからないうちに次のムーブメントに移行してしまう」傾向があるのだ、という僕の問題提起から二人の議論がはじまった。
 実践者には「アカウンタビリティ」がある。新しいカリキュラムがいくら取り留めもない、評価の指標をとることが難しいものであったとしても、このアカウンタビリティをはたす義務があるはずだ、そうじゃなけりゃ、教育の現場で必ずカリスマが生まれることになる。彼が発言するだけでそれは正しいことになり、人々を魅了してしまうような絶対的存在を生み出すことになってしまう、そしてそのことは結局実践の硬直化につながり、学習者がワクワクできないような学習環境を生み出してしまうことになる、と僕は主張した。
 これに対する氏の論点は、以下のようなものだった。この世には評価できないことだってある。第一、評価の基準はどうするんだ。教育に対してある程度の見識をもっているものが、良心に従って指導したそのプロセスそのものを評価とみなしてもよいのではないか。中には、行為レベルではオモシロイことができても、それを語ることが苦手な人だっている、とのことだった。

 僕の評価に関する意見はきわめてシビアだと某氏はいう。自分ではよくわからないけれど、僕が「自分の行為を他者にアカウントする責任」をかなり重要視していることは事実だと思う。別に「統計を使え!」「客観性はどうした!」「代表性は確保しているか?」などといいたいわけじゃない。「数字」にあらわせなかったとしても、実践を行うものには、その実践をアカウントする必要があると僕は思っているだけの話だ。そのアカウントの手法がどんな方法論をとろうと、それはこの場合問題にならない。他人を納得させられるだけの「了解可能性」さえ確保されていれば、どんな方法論をとっても別にいいんだと、僕は思っている。

 そういえば、先日AMAZON.COMから取り寄せたBransford et.al(1999)の「How People Learn?」では、新しい教育研究のあり方として「Learning Science」が主張されていたけれど、その「Science」の内容としてきちんと「Assesment」と「Evaluation」が重要視されていた。欧米の教育書では、必ずと言っていいほど、「評価」の問題が一章以上の紙幅をさいて設けられている。それだけ、評価が重要視されているということである。もちろん、そのことをもって自説の論の正当性を主張しているわけではない。ただ、「やったこと」を「ふりかえること」のもつ意味を、もう一度、考えるきっかけにはなると思う。

 新しいことを「やること」に意味がないとは言わない。でも、それ以上かそれと同等に重要なのは他者に対して「新しいこと」を吟味したり、意味づけたり、アカウントしたりする行為であると思う。だから、身内化し、他者に対してアカウントの責任を放棄し、議論さえ起こらなくなるような行為や活動のあり方については、僕はどうも違和感がある。


2000/01/19 一仕事終わったゼ

 大晦日とお正月を返上して執筆した雑誌論文を、本日投稿した。
 東京大学の杉本さんには有益なコメントやアドバイスをいただきました。NHKエデュケーショナルの荒地さんには、英文の校正を御願いしちゃいました。研究室の今井さんには、悪文を修正していただきました。その他、この論文の執筆を助けてくれた皆様、本当にありがとうございました。
 昨日は、研究室の「卒論・シュウロンごくろうさま会」だったのだけれども、そのあと、研究室の先輩の西森さんと一緒に最後の校正をした。西森さんはホントウに最後まで手伝ってくれた。完成した原稿を投稿する前に、二人で祈った。

 神よ、今まで「一通り」の悪いこともしてきたし、一大事にばかり「あなた」を頼って僕らは祈り続けてきたけれど、それにもかかわらず、今回もよろしく頼むよ。あなたは「神」だからわかんないかもしれないけど、生きるってそんなに楽じゃないんだから。

 ということで、今日はゆっくり休ませてください。すこし休んだら、また日常に戻ります。次の「学び=お仕事」も気合いを入れていくぞ。


2000/01/20 元気をだして

 深刻な面もちでその電話にむかっていることが、普段は鈍感な僕にも歴然と「見える」ような状況で、僕の「月並みで無力なコトバ」だけが受話器に向かって響く。

 心に傷を負ってしまった<人>を見るとき、そんな<人>に出会うとき。悔しさに涙する<人>を見るとき、そんな<人>に出会うとき。沈黙を守り続ける<人>がいるとき、そんな<人>に出会うとき。どうして、かの<人>をなぐさめるべく発せられた僕の「コトバ」は、こうも無力なんだろう。

 月並みで無力なコトバは、やはり響く。

 それにもかかわらず、僕は「月並みで無力なコトバ」を発し続けるだろう。「月並み」だと思っていても、「元気をだして」と言うだろう。「無力」だとわかっていても、「あなたにならできる」と言うだろう。そして電話を切ったあと、僕は沈黙のまま祈るだろう。

 <人>は二人称、他ならぬ「あなた」のこと。


2000/01/21 ワークショップ

 「ワークショップ」とは、リーダース英和辞典によれば「文学・芸術作品の創作方法。出席者が活動に自主的に参加する方式の研究集会(集団実習室)」という意味であるが、ここでは「ワークショップ」を「あらゆる学習者が自由に参加可能な場であり、そこに参加することで、学習者は、既存の物事の意味への懐疑や新しい意味付与、技術の収得が可能になる場」として以下、用いるものとする。別に定義が大切なわけじゃない。「学習者」って言ったって、タイソウなものではなく、そこらのおばちゃんや、僕のような税金泥棒まがいの院生だって立派な「学習者」である。また「場」と言ったって、村の寄合所みたいな建物なんて必要はない。要するに、「人」がかかわる場で、何らかの「気づき」と「思考」をともなうような学習の場をすべて「ワークショップ」と呼ぼうというだけの話である。

 さてそれでは、今日の日記の話題は、なぜ「ワークショップ」なのか。
 この問いに関しても、たいした理由があるわけじゃない。たまたま帰り際に大月ヒロ子氏監修の「WorkshopLab」というCD-ROM(大日本印刷株式会社発行)を研究室の院生棚から見つけてしまい、少し貸してもらおうと思ってイエに持ち帰り、さっそく見ていたらオモシロかったので、書いているに過ぎない。別にみんなに広めようだとか、これがポイント!だとか思っているわけでもない。

 WorkshopLabを数時間かけて見た。かなりアートっぽいツクリコミをしているので、音も大切なのだろうと思い、ご自慢の単品コンポにつないで、ゆっくりと見た。なるほど、中には「うむ?」と首をかしげたくなるものもあったが、というか、正確に言及するならば、僕の解釈能力を超えるものもあったが、おいしく楽しむことができた。このCD-ROMにおさめられた22個のワークショップは、すべて人が関わっており、そこに参加した人々は何らかの意味で「学習」しているように、僕には見えた。

 僕は何度かワークショップに参加したことがある。熱烈なファンというわけじゃないが、人並みには経験しているつもりだ。中には、ものすごく「考えさせられる」ワークショップがあって、それが終了後、長い時間語ることができなかった経験もある。また、同時にあまりの「うさん臭さ」に辟易した思いもある。ここで僕が語った正の経験や負の経験がワークショップを評価していることにはならない。言いたいことは、そういう経験をしたことがある、というただそれだけのことである。

 けだし、男と女という二つの生理学的特徴に裏打ちされた「性別」というものがあるのと同じように、この世にはワークショップを称揚する人も非難する人もいる。別に異なる意見があったって、僕は全くかまわない。だけど、我慢ならないのは、ワークショップを経験せずに非難を繰り返す人であり、ワークショップの危険性を十分に考えないままに、それを称揚する人である。

 大月ヒロ子氏が、CD-ROMの中のドキュメントで見事に指摘しているように、それにはメリットとデメリットが含まれている。ガーフィンケル流に言うならば、「Things to be seen, but not to be noticed(人の目には見えてはいるけれど、気づいていないもの)」に対する「覚醒」を呼ぶ起こす、それもかなり人間の「信念(Belief)」という意識の深い部分での覚醒を喚起するという点では、ワークショップは非常に有益であるが、同時に参加者の固定化、内容の教条化、場の自己目的化などの危険性を常に内包している。重要なことは、これらのメリット、デメリットが、それらワークショップを断罪する人々に「To be noticed or not(気づかれているのか、いないのか)」である。
 そういえば、かつて「ワークショップを宗教クサイ」といって断罪した人がいた。僕に言わせれば、ワークショップを宗教クサイという批判は2つの点において間違っている。第一に、教育的な営みは、あなたが感じるその「宗教クササ」を必然的に内包してしまう。この場合、クサイのは「ワークショップだから」ではなくて、「教育的だから」である。第二に、「宗教クササ」が非難の根拠としてあげられることほど、恣意的なものはない。「宗教臭くたっていいじゃん、何が悪いの?」と開き直られたとしたら、かの人はそれ以上に返すコトバを失ってしまうだろう。
 ワークショップは、それを単なる「一言」で断罪できるほど、簡単な営みじゃないと僕は思う。

 自分の日記で嘘を言っても仕方がないので、正直に言う。
 僕は、まだワークショップについて「わからない」。それに参加してみたい、それを主催してみたい、という思いは確かに自分の中に存在している。が、同時に、何を扱えばよいのか、また、何を伝えうるのか、そして学習者が何を経験したのかをどうやって僕が知り得るのか、という問いに関しては、かなり疑問が残る。しかし、「ある物事についてわからない」ということは、それ以上の探求を僕に保証する。
 もう少しワークショップについて考えてみたいと思う。


2000/01/23 フジ子・ヘミング

 わたしには国籍も祖国もない

 ある人からフジ子・ヘミングというピアニストの存在を教えてもらった。国籍も祖国もない孤高のピアニスト。NHK教育テレビ「フジコ〜あるピアニストの軌跡」という番組で紹介され、大反響を巻き起こし、再再々放送になったとか。「こういうドキュメンタリーが放映されるとは、テレビもいいもんだなぁ」と思う。

 今、彼女のCDを聞きながら、この日記を書いている。CDには、リストとショパンの名曲が彼女の演奏によっておさめられている。ラ・カンパネラ、ハンガリー狂詩曲、ノクターン。聞けば誰もが聞いたことのある曲ばかりだ。
 ショパンにしても、リストにしても、彼らの楽譜を見たことのある人なら、その難解さに頭を抱えた経験をもっていることと思う。僕も何回か見たことはあるけれど、最初の一小節で鼻血がでそうになった。フジ子・ヘミングは、「ショパンとリストを弾くために生まれてきたピアニスト」と呼ばれていたらしい。

 人が「あの曲が好き」というとき。その人の奥深くには、何かを「想い」ながら「あの曲」を聞いたことに対する憧憬が隠されているという話をどこかの本で読んだ。フジ子ヘミングの「ラ・カンパネラ」はそんな一曲になりそうだ。

 フジ子・ヘミングを教えてくれてありがとう。
 ラ・カンパネラって「鐘」のことなんだって。

  • http://www.ops.dti.ne.jp/~totoroo/fijiko (フジ子・ヘミングさんのファンのためのホームページ)

  • 2000/01/25 肛門からリンゴ

     今年になって3本目の論文に着手している。修士論文、雑誌論文に続く第3弾だ。年末からやっていたことだったのだけれども、少し「考え」が浮かんだので、それをうまく文章にしたいのだけれども、僕のたよりないアタマじゃ、なかなかそれをコトバに置き換えられない。文献を読みつつやるしかない。それにしても遅々とした作業で、本当に辛い。

     生みの苦しみ?

     そういえば、前にどっかで「出産の時の女性の苦しみは肛門からスイカがでてくるようなものだ」って読んだことがある。なるほど、スイカか。名言だな。それから比べれば、僕の今の苦しみは、「肛門からリンゴ」くらいなものだ。

     まだまだ、リンゴくらいで、クタバッテたまるかってーの。でも、スイカはやめてね。


    2000/01/28 肛門からスイカ

     肛門ネタばかり増えてしまっていますが、今年になって3本目の論文に加えて、4本目も同時にスタートすることになりました。実は、3本目よりも4本目の方が締め切りがはやいので、こちらの方を先に成敗しなくてはなりません。

     生みの苦しみ

     昨日は、リンゴだったけれど、今度こそ「肛門からスイカ」になったかな。
     スイカくらいでくたばってたまるかってーの。でも、矢とか鉄砲はやめてくれ。そんなもん、はいるかい!!


    2000/01/31 ビックバン

     先日、堺市にあるチルドレンズミュージアム「ビックバン」に行って来た。チルドレンズミュージアムというものに、はじめて行くので、最初それがどんなものなかもイメージできず、「大きな公民館」みたいなところなのかなぁと思っていた。ごめんなさい。

     本当にオモシロイ空間だった。日曜日だったので、結構人で混雑していたが、中には手作りでいて、参加型の展示というか、そんなスペースや展示が豊富に用意されていた。館内の案内によると、館のデザインはHands-on Interactive exhibitionで構成されているのだという。自分の書いた絵を取り込むことのできる電子動物園、ペットボトルや廃材を利用したモノづくりコーナー。お料理コーナーでは、子どもがヴァレンタインデーのチョコレートをつくっていた。思わず、僕も一緒に遊びたくなったが、結構混雑していたので、それはかなわぬ願いだった。今度は子どもにまじって遊んでやるぜ。

     ビックバンのGeneral Directorをなさっている大月ヒロ子さんにもお会いしてお話を伺うことができた。大月さんの名前は、かねてからいろいろな場所でお聞きしていたが、今回お会いするのははじめてだった。大月さんには、それにもかかわらず、お忙しい中、熱心に親切に対応していただいた。本当にありがとうございました。

     学校ばかりが学びの場ではない。学校が学びを独占していた時代は、すこしずつ脱構築されはじめてきている。もちろん、学校が不要だと言っているわけでも、このオルタナティヴを正統なものと認めろ!と言っているわけでもない。

     人のいるところに学びは必然的に「ある」のだ。


    NAKAHARA,Jun
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